観音像の鞘(さや)裏面の二十五菩薩来迎図
520年に完成した本堂の中に517年に作られた観音様が立っています。
いまさら「法隆寺より古いお寺」とは口が裂けても言ってはならないのです。
江戸時代の初めに超大規模解体修理が行われ、それを新築と称しているのです。
部分的に残すべきものは残す方針だったらしく、人目につきにくい観音像周辺の柱、壁板などに描かれた創建寺の絵とか模様を今でも見ることが出来ます。
御開帳の折、あの暗い内陣の中に入った瞬間、元祖清少納言のいた空間を共有しているんだと思うと、知的興奮は最高潮に達します。
年代的には、これらの絵は高松塚古墳の壁画より若干古い(大和長谷寺は佐賀県三瀬村で創建されたものを721年、現在地に移築し終えた)ことになります。
ガイドブックの説明は、他の移築された寺院同様、おとぎ話がてんこ盛りです。
九州王朝を否定することは「飛鳥時代、大陸の玄関口北部九州が空っぽで、何もなかった」と言っていることと同じだ、と学者先生たちはわかっているのです。
「それを言っちゃお終いよ」の寅さんなのです。