先日、話題にした「日本扶桑国之図」の実物を奈良のちゅうとん先生が見に行き、レポートされています。
引用
2018年8月 5日 (日)
広島県立歴史博物館「世界を驚かせた日本人の地図づくり」をみて
早朝5時に家を出て、山陽自動車道を走り、福山東出口を下りて、福山駅前の広島県立歴史博物館に行ってきました。途中、吉備SAでサンドイッチと珈琲。8.40博物館駐車場にとうちゃこ。公園の日陰ベンチで時間待ち。
伊能忠敬没後200年記念
初公開!世界を驚かせた日本人の地図づくり
行基図から伊能図まで
9:00ちょうどに一番乗りで入場。人出はガラガラでした。
日本扶桑國之圖
室町時代の写本。原本は「行基図」と呼ばれ、何度も写本が繰り返され、長い間、日本の形として人々に認識されていました。
日本列島の形を真言密教の独鈷の形に描いてありました。
対馬の東に「流毬嶋」、日向の南に「龍之國」が描かれ、ふたつの沖縄が認識されていました。
山城から七道が赤い線で描かれており、飛鳥時代に作られていた舗装高速道路「古代日本ハイウェイ」を表しているとのこと。
山陰道八ヶ國 石見・隠岐まで
山陽道八ヶ國 長門まで
西海道九ヶ國 日向まで
南海道六ヶ國 伊豫まで
東海道十五ヶ國 安房まで
北陸道七ヶ國 佐渡まで
東山道八ヶ國 出羽・陸奥まで
立畿内五ヶ國 山城・大和・河内・和泉・摂津
入唐道 大宰府から壱岐・対馬まで
各国に数字が書いてあり、郡の数を表しています。
以前のブログでの私の判断が正しいことが、このレポートで裏付けられた、と思います。
●室町時代の写本なら、伊勢、志摩、淡路が現在の位置と一致。
●「古代のハイウェー」が“飛鳥時代に作られていた”ということは、あの時代、工事が一朝一夕で完了する筈はないので、ひとつ前の時代(倭国時代)に舗装高速道路網が既に張り巡らされていたと解釈できます。
東北まで道路が完備していたことを考えると、少し前まで倭国の連邦の一つにすぎない扶桑国(当時まだひよっ子であった大和朝廷)に完成させる能力があったとは思えません。
●大宰府に通じる、これほどの道路網がありながら、列島の端にあるとはいえ、其処が主都である王朝とその連邦の一つである扶桑国との間に交流はなかった、のみならず、(王朝など)一切何もなかった、という扱いはどう考えても国民を馬鹿にした話です。
奈良時代の末、国の根幹をなす舗装高速道路をわざわざ破壊させる命令が下された(動画59:00過ぎ)のが、農民たちの耕作地確保の要求を受け入れることにした為とは、さらに国民を馬鹿にしたお話です。