発見された「日本扶桑国之図」は倭国の地図? | 民営文化センター

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超古い日本地図が発見された、というニュースです。

 

 

描かれた時代は推測の域を出ないようですが、いつの時代でも古代の文献が写本・模写されることはいくらでもあり、“鑑定団”的に古さとか真贋を議論するより、まずは書かれている内容に注目することが先決です。

 

 

何故、この地図のタイトルが「日本扶桑国之図」なのか、が大問題なのです。

 

 

扶桑国は大宰府を首都とする九州王朝倭国を構成する連邦の一つで、後に大和朝廷の中核となった国です。

 

 

一方「日本」のネーミングは同じ連邦の中の一つである東北「日の本」に由来し、遣隋使の頃に「倭国」改め、北海道を除く日本列島全体を「日本」と呼ぶように(九州中央政府と東北王朝との間で)合意が成立したものと想像します。

 

 

この地図がいつの時代を表しているか検討するに当たり、「日本扶桑国之図」を ①「日本」、②「扶桑国」の二つに分けて分析します。      

 

 

①「日本」の主体:

. 白村江敗戦以前の九州王朝。 

.壬申の乱で九州王朝とその国名「日本」をセットで

乗っ取った扶桑国(大和朝廷)。

 

②「扶桑国」の立場:

.中央政府に逆らう以前。

.奪った国名「日本」がまだ定着しない初期の段階。   

 

 

地図は扶桑国の在る近畿地方を含め、日本列島全体が描かれているので表記として「日本」は必須です。

 

 

何故、「扶桑国」が名を連ねているのか、ですが、①、②のAの状況下では名を連ねる意義はありません。

 

 

①のBに於ける乗っ取り王朝(大和朝廷)が ②のBの状況下で「日本」のみを名乗ったとしても前王朝との区別がつかないので「扶桑国」を追記せざるを得なかったのが真相でしょう。

 

 

その後、大和朝廷の支配が安定したところで「扶桑国」をはずして「日本」単独の国名にしたのでしょう。

 

 

当時世界最高レベルの普遍国家だった倭国九州王朝を巧みに、まるでマジックのように消し去った手口が目に見えるようです。

 

 

この国名の乗っ取りの期間に建築物、文学、地名、人材等の移動が行われたのは言うまでもありません。

 

 

この発見された地図は材質的に例え室町時代のものであっても、描かれている内容は扶桑国が九州王朝を乗っ取り(米田史学で言う壬申の乱)、大和朝廷がスタートしたばかりの日本を表わしていると考えます。

 

 

描かれた街道は言うまでもなく倭国の時代に造られたもので、以前、NHKで放映された古代のハイウェー(の真相)と一致しています。

 

 

追記(6月23日)

この新聞記事の写真は拡大すると文字はかなり読み取ることが可能で、伊勢、志摩、淡路が現在の位置と一致していることが確認できます。

地名の移動がいつ完了したのか、古代のハイウェーの正確な経路等、今後の研究が必要です。

 

王朝乗っ取りを仄めかすような「扶桑国」の3文字が何故書き加えられているのか、是非明らかにしたいものです。