学生時代、関西の主だった地域に亘る人たちと接する機会があり、関西弁のエリアごとの微妙な違いが興味深かったですね。
とりわけ、大阪弁が他と大いに異なる点は、何となく ふて腐れているように響く事と 話に「落ち」がつくことでした。
「米田建築史学」を知って、本家「難波津」から新たに設定された「難波」に強制移住させられた者たちの心理状態を考えてみました。
恐らく「どうせ俺たちは・・・ 」といった気分で会話が交わされ、終いに「落ち」を加えて鬱憤を晴らしていたのでありましょう。
「九州でのことは絶対に口外するな!」と強制された上での新造言語が大阪弁の起源、というのが私の新説であります。
それでは、抜け殻となった その後の博多エリアの人口はどう変化し、博多弁は如何にして今日の形になったのでしょうか。
もう少し両者に類似点があってもよさそうなものですが・・・・