科学の壁(新説がなかなか認められない理由) | 民営文化センター

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民営の文化センターを開設するのが夢。このブログを書いているうちに何かヒントが掴めると思ってやっています。不器用で華やかさに欠ける画面ですが、少しでも世の為人の為になればとwrite everything forever



どこの世界でもそうかもしれませんが、常識を覆そうとするような試みというものは強い抵抗に遭うものなのです。




科学において、二つの研究があった場合、どちらの研究が重要なのかというと、今まで考えられていなかったことを明らかにしたいという研究の方が、今まで考えられていた仮説を確かめてみたいという研究よりも明らかに重要です。




前者は科学という知識体系の中に、今まで存在しなかった法則というものを新たにもたらすからです。




今まで、みんなが考えていたことが実は間違いだったということを示すような研究の方が重要だということです。




科学自体は論理の正しさが勝負なのですが、やっているのは人間です。




既にある知識体系の中で説明できないことが現れ、それを説明する原理が現れた時、人間の中にはそれを葬り去りたいという欲望が湧いてくる場合があります。




新たな仮説が提唱された場合、論文のレフリーをするのは今までの知識体系の上で業績をあげてきた人たちです。




そういう人たちにとって、新しい原理が本当であると分かってしまうと、自分が半生賭けてやってきた仕事がほとんど無意味になってしまうわけで、それは人間として耐え難いわけです。




そして、その人の今ある社会的地位と権威が一瞬にしてなくなってしまうのです。




新たなチャレンジをする人ほど不利になるという矛盾した状態が科学の中にはあり、先駆者はみな苦労しているのです。




(北海道大学の長谷川英祐先生 の意見を参考にしました)


 






「法隆寺移築説」の苦戦する理由がお分かりのことと思います。




レフリーが反論を書くということは危機感の現れでしょう。




重箱の隅”を衝っ突く見苦しい本(冒頭の写真)です。




十年以上前、NHK教育TVで法隆寺をテーマにした番組中、大御所のS先生が「法隆寺の謎は謎のままでいいんじゃないでしょうか・・・」と発言され、思わずソファーから落っこちそうになりました。




言いたい放題で国民を煙に巻き、給料が貰えるなんて素敵な人生です。




一方、アマチュアというだけで、密度が濃く独創的な新説を唱える米田良三氏に対し権威筋から抵抗があったことが伺えます。