今頃こんな頓珍漢なことを言う人がいるとは・・・ 勉強不足でしかない!
NEWSポストセブン 「玄侑宗久氏 安倍氏国葬『弔意は求めないが予算は使う』に大いなる矛盾を感じる」
安倍元首相の葬儀は7月12日に増上寺(東京・芝公園)で済んでおり、浄土宗の戒名(紫雲院殿政譽清浄晋寿大居士)も戴いている。つまり仏教のお弔いは済んでおり、国葬を執り行なうと言われても、僧侶である私は「イメージが湧かない」というのが率直な感想だ。
仏教のお弔いは済んでおり、国葬を執り行なうと言われても、僧侶である私は「イメージが湧かない」
この発言の中に答えがあるのだが、玄侑宗久氏は気付いていないようだ。
自身でも、「仏教のお弔いは済んでおり」と言っているではないか!
その通り、「仏教での葬儀」は終えているが、「国葬」は仏教とは関係なく行われる国の行事だ。
仏教などの宗教とは無関係に行われる国の行事だからこそ、僧侶である玄侑宗久氏には「イメージが湧かない」のだろう。
国家の儀式として行なう「国葬」であれば、予算は全面的に税金から出してもやむを得ないというもの。しかし、野党に批判されたとはいえ、「弔意の表明や黙祷なども求めない国葬」となると、いったい何のための「国葬」かと思わざるを得ない。
「弔意の表明や黙祷なども求めない国葬」となると、いったい何のための「国葬」かと思わざるを得ない
それを言うなら、日本国憲法のことなど無視して旧統一教会のことで叩きまくっているとなると、いったい何のための「憲法記念日」かと思わざるを得ないし、
かつての太平洋戦争時のように事実を捻じ曲げた報道という過ちを犯しているとなると、いったい何のための「終戦の日」かと思わざるを得ないなどなど言えてしまう。
そうは思いませんか?玄侑宗久氏は。
日本国憲法を蔑ろにし、太平洋戦争時の過ちを繰り返している報道と社会に対して、玄侑宗久氏はどのように思われるのか?
何のための国葬かは参列する人それぞれ、参列する国それぞれとも言えよう。
人によっては安倍元首相への弔意として、人によっては民主主義を守る決意として、人によっては自由で開かれたインド太平洋戦略の誇示として、などなど。
国葬が宗教に縛られないからこそ、弔意、思い、考え、決意、誇示、再確認などなど、様々なもののために行われる行事となり得るのだ。
少なくとも、国葬反対派にとっても民主主義は大切なはず。
日本国は民主主義国家であるし、であるからこそ、「国葬反対」を叫ぶこともできるのだから。
自民党が「関係を断つ」とまで言っている旧統一教会系団体と深く関係していた安倍氏を、国を挙げての葬儀にするという点にも矛盾を感じる。
旧統一教会系団体と深く関係していた安倍氏を、国を挙げての葬儀にするという点にも矛盾を感じる
結局はこれを強く言いたいのでしょう。玄侑宗久氏は。
であるならば、安倍元首相が旧統一教会と深く関係し、旧統一教会に便宜を図っていたとする証拠を国民に提示してから声高に主張すべきだろう。
それとも、玄侑宗久氏は、疑惑だけで人を裁くつもりか?
現在の仏教は「疑惑だけで人を裁け」と説いているのか?
安倍元首相が旧統一教会と深く関係し、旧統一教会に便宜を図るならば、なぜ、霊感商法に対する規制を強化したり、韓国を優遇するどころか厳しく対応していたのか?という点にも矛盾を感じてはどうか?
自身の主張にとって都合の悪い矛盾点には見て見ぬ振りをするつもりか?
現在の仏教は物事を公平公正に捉えず、自己都合による偏りのある捉え方をせよと説いているのか?
振り返れば、岸田首相が国葬を早々に閣議で決定した時も、(法令上の根拠がなくても政策を決めることができる)閣議決定を最大限に利用するのが、安倍さん以来の自民党政権の伝統のようなものかと思わされた。
法令上の根拠がなくても政策を決めることができる
法令上の根拠はある。勉強しなさい!
「国民に喪に服するなどのご迷惑はおかけしません。勝手にやるけれども、予算だけはいただきます」──そんな国葬の前例は作るべきではないと思う。
勝手にやるけれども、予算だけはいただきます
玄侑宗久氏は日本が民主主義国家であること、法治国家であること、議院内閣制であることを知らないのだろうか?
国民が選んだ国民の代表の中から内閣総理大臣を決め、その内閣総理大臣が内閣を構成する。
つまりは主役は主語でもある「国民が」である。
民主主義によって国民がつくった政府が、法治国家として法に則って国の行事を決め、予算を執行しているわけだ。
勝手にやるわけでも、予算だけいただくわけでもない。
子どもでも理解している社会のしくみだ。
自分が賛同できないからと、自身の都合に合わせて社会のしくみを捻じ曲げて主張するでない!
玄侑宗久氏は子どもたちに民主主義とは、法治国家とは、議院内閣制とはをどのように説明するつもりか?
芥川賞受賞作家 平野啓一郎氏、李琴峰氏に続いて玄侑宗久氏となってしまうのか?
玄侑宗久氏には、同じく芥川賞受賞作家である平野啓一郎氏や李琴峰氏のようにならぬよう、自身の主義主張目線だけでなく、世界目線、地球目線で物事を広く俯瞰して見て捉えるよう心掛けて欲しいものだ。
自身の主義主張目線ばかりになると、どうしても、それに反する者や物事を攻撃したくなり、その者や物事の悪い部分ばかりに目線が行ってしまい、思考も主張も偏向してしまうものだ。
7月25日のブログ記事 「芥川賞受賞作家 平野啓一郎氏、李琴峰氏から『優れた作品=優れた人物』とは限らないことがわかる」
長きに渡り一国を背負った人に対して感謝も労いの心も無く、死後もなお批判や誹謗中傷を繰り返している者が存在していることを世界はどう見ているのか?
9月17日のブログ記事 「ワイドショーに洗脳された井の中の蛙さんたちよ 世界は日本をこう見ていますよ! 嗚呼、恥ずかしい」
井の中の蛙のように国内ばかりを見ず、世界を見て、世界から日本を見ることもしてみてはどうか?
安倍元首相は国内だけでなく、外交政策においても積極的に取り組み、戦略を提唱し他国を動かした人物なのだから。