自分にとって嫌いな人相手ならどんな批判でも出来てしまう人

 

安倍晋三元首相の暗殺とSNSの普及により、そんな人たちの存在がはっきりと見えるようになった。

 

普段は、「人権を守れ!」、「命は大切!」、「人権や命は平等だ!」などと聞こえの良いことを主張していても、実際は、自分にとって嫌いな人の人権や命など蔑ろにする者。

 

自分にとって嫌いな存在なら、疑惑だけで犯罪者扱いし、「監獄へ」、「辞めろ」、「消えろ」、「死ね」、「本当に腸を断ってくれないかな」などなど、人権も命も無視した発言、主張を声高に狂ったように繰り返す者ども。

 

その思考と行動、独裁者と全く同じ。

 

結局、「人権を守れ」も嘘、「命は大切」も嘘、「人権や命は平等」も嘘なのだ。

 

 

 

歴史を振り返ってみなさい、今なら振り返らずとも中国政府やプーチンを見ればわかること。

 

自分にとって邪魔で嫌いな存在なら、強制収容したり、拷問したり、毒殺したり、平気で一般市民へ向けてミサイルを発射したりする。

 

そんな奴らでも、国連人権委員会で「人権を守れ!」などと主張したり、「平和を実現する」などと主張しているのだから、呆れを通り越して虚無感に包まれてしまう。

 

 

 

「優れた作品=優れた人物」などと短絡的に捉えてはいけないのだな

 

 

芥川賞受賞作家の平野啓一郎氏、これまでにも度々どころか毎度毎度、政権批判をしているが、文章はお得意なようで、上っ面では聞こえが良く、正論かのように聞こえるのだが、実はその中身は薄っぺらく、実現性、実効性を感じられるような具体性は無い。

 

「そりゃ、それが最善だよね」という理想論だけで、一番困難な具体的な部分には触れようとしない。そこまでの案や思考は無い。

 

だから、頭の中がお花畑ではない私なんぞは、平野啓一郎氏の批判もどきの雑音に腹が立って仕方がない。

 

実際、そんなお花畑みたいな思考で、世の中の問題を解決できたためしがない。

 

 

 

「外交で戦争を防ぐ」なんて言いながら、どうよ、ロシアによるウクライナ侵攻は?

 

昨日の合意さえも守らない者にどうやって外交で戦争を防いだりやめさせることができるのか?

 

そもそも、その外交能力が政治家の中で一番優れていた安倍晋三元首相を失った日本が、今後どうやって外交で戦争を防ぐのか?

 

誰かいます?安倍晋三元首相よりも優れた外交能力を持っている政治家。

 

そこんところ、お花畑からの理想論だけでなく、現実世界からの具体的な策をよろしく!

 

 

 

他にもこんな人もいますよ。

 

あら偶然、こちらも芥川賞受賞作家の李琴峰氏。

 

この人にとっても、「自分の嫌いな人物の人権や命などどうでもいい!」のでしょう。

 

それを自ら証明したのがこのツイート。

 

 

ついつい本音を漏らしたところ、世間から批判され削除したツイートだが、まともな人間なら冗談でも吐かない言葉だ。

 

「本当に腸を断ってくれないかな」という言葉を素直に受け取ると、「腸を切断しろ」、「腹を切れ」、「死んでくれないかな」といった感じになる。

 

揶揄だとしても笑えない。これで嘲笑っているとしたら気持ちが悪い。

 

こんな非人道的な発言が、お花畑では許されるのでしょうかね?

 

 

 

以下のように区分したなら私はレベル1だ。

 

私は自民党支持者というわけではないが、立憲民主党の蓮舫氏や枝野幸男氏のことが現状においては嫌いだ。

 

嫌いだが、「腸を断ってくれないかな」とか、「監獄へ!」とか、「消えてくれ」などと思ったことも、これまでのブログ記事で書いたことも無い。

 

レベル1⇒ そもそも、他者に対してこのように思わない人

 

レベル2⇒ 他者に対してこのように思うけど口には出さない人

 

レベル3⇒ 他者に対してこのように思い口に出してしまう人

 

レベル4⇒ 他者に対してこのように思い口に出し実力行使してしまう人

 

芥川賞受賞作家の李琴峰氏はレベル3、安倍晋三元首相暗殺犯はレベル4ということになろう。

 

レベル3とレベル4、隣り合ってますね。

 

人間、何がきかっけでレベル3からレベル4になるかわかりませんよ。常にレベル1、せめてレベル2以下を維持しておくのが健全でしょう。

 

 

 

人に対して平気で「腸を断ってくれないかな」とか、「死ね」とか、「刑務所へ入って償え」といった言葉を投げつけることができる人ということは、安倍元首相に限らず、自分とは考えの異なる人、嫌いな人は全否定で排斥してしまう人なのでは?ということが、このような客観的事実からも読み取れる。

芥川賞受賞時のあの笑顔の裏で、嫌いな人に対しては「死んでしまえ」、「刑務所に入れ」などという思考があったのだと思うと気味が悪い。

 

 

 

とりあえず、世間が言う「優れた作品」が、そのまま「優れた人物」とはならないことがわかった。