自分とは異なる考えの人や自分には直接関係の無い人には無関心だったり、深慮が無かったり、思いやりが無かったり、誹謗中傷ともとれる非道なことを言えてしまう人でも、文章というものはどうにでも繕えるし、心にもないことを文章にすることもでき、容易に偽善者になれてしまうのだろう。なので芥川賞も受賞できてしまう。

 

自分の嫌いな人に対し心無い言葉を平気で投げつける人が、言葉を連ねて作り上げた作品で一部の人を感動させることもできてしまう。

 

まぁ、作家と作品が一体であるとは限らないのだろう。

 

「作品」というのは所詮作り物ということなのだろうと、この人たちの吐き出した言葉からそう思えてきた。

 

 

 

つい最近芥川賞を受賞した李琴峰氏のことがネット上で騒がれていたので確認したところ、目を疑うようなツイートの存在を知ってしまった。

 

 

今現在上記のツイートは削除されているようだが、

 

 

こういったツイートがあることからも、安倍政権が嫌いだということは間違いないだろう。

 

「本当に腸を断ってくれないかな」という言葉を素直に受け取ると、「腸を切断しろ」、「腹を切れ」、「死んでくれないかな」といった感じになる。

 

揶揄だとしても笑えない。

 

いくら嫌いない人物だとしても、あなたと同じ一人の人間だ。

 

それとも、自分とは異なる考えの人に対しては何を言っても、何をしてもいいと思っているのだろうか?

 

人に対して平気で「死ね」だとか、「刑務所へ入って償え」といった言葉を投げつけることができる人ということは、安倍前首相に限らず、自分とは考えの異なる人、嫌いな人は全否定で排斥してしまう人なのでは?ということが、このような客観的事実からも読み取れる。

 

芥川賞受賞時のあの笑顔の裏で、嫌いな人に対しては「死んでしまえ」、「刑務所に入れ」などという思考があったのだと思うと気味が悪い。

 

 

 

※【追記】この記事を書いたのが7月20日、22日朝確認したら「@Li_Kotomiさんから承認された場合のみツイートを表示できます。」と非公開になっていた。自身が承認した仲間内で嫌いな人の悪口を言いあうつもりなのだろうか?

作品の事は知らないが、人としては私にとって尊敬には値しない。作品も人も尊敬できるのが理想だが、なかなかそうはいかない。

 

 

 

私は自民党支持者というわけではないが、立憲民主党の蓮舫氏や枝野幸男氏のことが現状においては嫌いだ。

 

嫌いだが、「腸を断ってくれないかな」とか、「監獄へ!」とか、「消えてくれ」などと思ったことも、これまでのブログ記事で書いたことも無い。

 

私は相手が嫌いだとしても、敵対しているとしても、排他しようとは思わないし、人に対する最低限の敬意を失わぬよう心掛けている。これは剣道という武道の精神から教わったものでもある。

 

 

 

そして、そう分別しているわけではないのだが、「作家」、「芥川賞」、「排他的な批判の仕方」ということから紐づけされて思い浮かんだのが、同じく芥川賞を受賞している平野啓一郎氏のこと。

 

平野啓一郎氏もツイッターで政権批判というか、内容は対案もなく具体的でもない雑な言葉を使った文句ばかりの「批判もどきの雑音」が多いのだが、「嫌い」、「憎い」といった感情だけを感じられるような短文を多く投稿している。

 

 

 

そして、「自分とは異なる考えの人や自分には直接関係の無い人には無関心だったり、深慮が無かったり」という点においては、この人もそうだったと思い出したのが、これまた作家の真山仁氏だ。

 

2021年4月10日のブログ記事五輪中止を主張する者は何を根拠に?不安感、危機感という感情論? 今年は客観的事実や科学的根拠を!にも書いたが、

 

真山仁氏は文春オンラインの記事で、「言ってしまえばオリンピックは国際的な“運動会”にすぎません。」と言い切っている。

文春オンライン 「菅首相は日米首脳会談で五輪中止を明言せよ」

 

 

真山仁氏にとっては、「オリンピック=運動会」なのだろう。

 

テレビの街頭インタビューで、「子供の運動会は中止になったのにオリンピックは開催されるというのは納得できない」というような意見があったが、それは、「オリンピック=運動会」と考えているから納得ができないのだろう。

 

もしかしたら、真山仁氏も「子供の運動会は中止になったのにオリンピックは開催されるというのは納得できない」と思っているのかもしれない。

 

自分とは異なる分野は深慮せず、上っ面だけで決めつけ、軽んじるというのは、「他者を思いやらない=いじめ」に繋がる思考だと思う。

 

ちなみに、子供の運動会とオリンピックはまったく違うものだということを7月17日のブログ記事子供の運動会は中止なのにオリンピックはいいのか? 密はダメなのに満員電車はいいのか?と同じだなに書きました。

 

 

 

自分とは異なる考えの人を蔑み、貶し、虐げ、まるで人権など無いかのように軽んじる。

 

そのくせ、「人権」だの、「命」だの、「平等」だのといった言葉を使って声高に叫ぶ。

 

その「人権」、「命」、「平等」は、自分と同じ考えの人に限定したものなのだろう。

 

 

 

このような考えの人たちが政権を握ると、次第に中国共産党と同じことをするようになるのではなかろうか?

 

中国政府は中国共産党の考えに背く人は「消えろ」、「監獄へ」、「腸を断て」ということで、逮捕したり収容所送りにするなどしている。

 

日本がこのような国にならぬよう、繕った偽善の文章に惑わされず、その人の本心、思考をしっかりと読み取る力を養いましょう。

 

そして、作品というのは所詮作り物であって、作家と作品が一体ではないことを承知のうえで作品を楽しみましょう。

 

 

 

それにしても、自分と考えが異なる嫌いな人物だからといって、相手を貶したり蔑んだりするのは人として立派なことをしているとは思えない。

 

自分に大切なものがあるならば、他者にも大切なものがあるのだと想像できないのだろうか?

 

自身の作品が子供の日記や読書感想文と同じではないのなら、オリンピック選手にとってオリンピックは子供の運動会と同じではないと容易に想像できないのだろうか?