小説「ワールズエンドアンドガールフレンド」 -8ページ目

モスグリーン<1>




  僕はひどく混乱していた。どのくらい混乱していたか言い表せないほど混乱していた。キツネはほんの少しだけ開いていたドアを閉めたのだ。それも目一杯の力で。一瞬の静寂があたりを包んだ。そして止めるまもなくそのドアに鍵をかけたのだ。僕は立ちすくむ足を動かそうとしてみたがまったく動く気配もなかった。彼はすごく満足そうな笑顔を見せると姿を消した。あとには閉じられたドアだけが残った。そしてそれはもう二度と開かないかのように見えた。








 目が覚めた。そこはいつもの部屋だった。淡い茶色のカーテンから微かに陽の光が射している。それはそれ以上でもそれ以下でもいけない、絶妙な量の光だった。僕は横になったまま心から感謝の意を示し、モスグリーンの枕に顔を埋めた。汗の匂いがした。そのまま寝てしまってもいいけれど、こんな晴れた日に二度寝なんてもったいない。僕はちょっとくたびれたヒーローみたいにゆっくりと立ち上がって、朝食の支度に取り掛かった。


 僕は目玉焼きを二つと熱い紅茶とマフィンと、一口大の大きさに切ったトマトを用意した。あとから思い立ってレタスを何枚かトマトの乗っている皿に添える。それらを白いテーブルクロスの上になるべく整ったバランスで配置する。少し傾いだ木製のイスに腰をかけ、いつも通り朝食を黙々と食べた。僕はこの時間が一日の中でもひどく気に入っている時間だ。朝食を食べながら窓の外の音を聞く。風の音、小鳥のさえずり、木々の葉が揺れて誰かの噂話をしている。


 素敵な朝食の時間を終えた僕は庭に出る。ダイニングを抜けてお気に入りのソファと低いテーブルがあるだけのリビングへ向かい、庭に面した大きなサッシを開け放ち、新鮮な空気を肺いっぱいに吸って段差を飛び越えて庭に出る。こじんまりとした庭には草が生い茂っている。名前も知らない木々が息づき、小さな花が精一杯着飾って緑に文字通り花を添えている。僕は使い古した青いホースをズルズルと塀際から引き出し、霧のように細かい水を空中に撒いた。


 水を撒き終わると、しばらく家と庭を隔てる段差の縁に腰掛けてみる。風が頬に心地よい。僕はそっと目をつぶってみた。目をつぶると風の音が聞こえる。風が木々の間をすり抜け、葉に語りかけ、土を優しく撫で、そしていつの間にか去ってしまう様子を瞼の裏に描いてみる。



(もうしばらくここにいよう。)





 気づくと僕はいつの間にか、優しい風に身体を預ける格好ですやすやとその優しい眠りについていた。
 僕は夢を見ていた。どこか遠くの国にいる。左手に赤い屋根の建物が、右手には小さな湖がある。僕はそこが夢の世界であることを知っている。
 

 僕は赤い屋根の建物の正面にある、素敵なドアをノックする。返事がないのでノブに手をかけて小さな力で手前に引いた。ドアは小人の歯軋りのような音を立てて、じれったいくらいに少しずつ開いた。中には誰もいないようだった。音一つしないし、およそ生活感といったものが感じられない。ガランとした一つの大きな部屋のようになっていて、真ん中に大きな長方形のテーブルがあり、その長い方の辺には椅子がずらりと並んでいた。床は木造の床で、あらゆるこげ茶色の中でおそらく誰もが思い浮かべるような中立的な色をしていた。右手にやや大きめの窓があり、そこから外の光が入り込んでくる。奇妙といっていいほどに理路整然とした空間だが、この部屋には何もない。



(この部屋には何もない。)



 僕は思った。そこには何か、例えば忘れてしまってどうしても思い出せない何かや、懐かしくて温かい記憶を呼び出すときのような、どこか胸が締め付けられるような気持ちが伴っていた。僕はしばらく立ち尽くしてそんな空気に浸ってみた。
 僕はこの夢が覚めるまでの時間、もう何もしないでおこうと思って、静かにドア口に座り込んだ。何か、それ以上部屋に入ったら涙さえ出てきてもおかしくないような、そんな気持ちだったからだ。







 ―気がつくと僕は目を覚ましていた。夢はいつも目が覚めるとすぐにあやふやになってしまう。少しだけ残っている夢の断片も、手の甲にのった粉雪みたいに消えてなくなってしまう。それでも消えないでそのままでいるざらめのようなものを、僕は頭の中で大事にすくい取ってみる。やっぱりそれはどこか懐かしいような、そして二度と帰れないような気持ちに僕をさせた。


 日はまさに今暮れようとしていた。僕の庭が淡い赤に染まっている。しばらく座っていたかったものの、風が少し肌寒い。僕はホットチョコレートを飲もうと、ゆっくりと家の中に帰った。