新課程の世界史(世界史探究)の教科書・用語集で新たに採用された語句を順に紹介していきます。
今回は,ヨーロッパ諸国のアメリカ大陸進出の範囲で追加された,フランスの探検家「カルティエ」を紹介します。
<カルティエ>
ジャック・カルティエは,16世紀にカナダの探検を行ったフランスの探検家である。
探検開始まで
ジャック・カルティエは,15世紀末にフランス北西部ブルターニュ地方の港町サン・マロで生まれた。
彼の前半生については詳しいことが伝わっていないが,航海がさかんなサン・マロで生まれ育ったこともあって,船乗りとなって航海の技術を学び,経験を積んだと考えられている。
そして,大航海時代が開幕してヨーロッパ諸国がアジア進出に関心を高めるなか,カルティエは1534年にフランス王フランソワ1世から西回りで北米大陸を越えてアジアに到達するための北西航路の開拓を命じられて,北米へと出航することになった。
探検
<カナダの地図>
<カナダ東部の拡大図>
1534年,カルティエ率いるフランス船隊は第1回航海を実施し,サン・マロから西方に向けて出港し,北米大陸の東に浮かぶニューファンドランド島へと到達した。
そこから西のセントローレンス湾に入って周辺の調査を行い,南方ではプリンスエドワード島を発見し,また西方ではガスペ半島に上陸し,ここに十字架を建ててフランスによる領有を宣言した。
翌年の第2回航海では,セントローレンス湾の西南部の奥へと進出してセントローレンス川に入り,現在のケベックの地に到達した。彼はこの地域のことを,先住民の言語で「集落」を意味する言葉の「カナタ」にちなんで「カナダ」と呼んだが,これがカナダという地名の由来になった。
さらに一行はセントローレンス川を遡って上流へと進み,現在のモントリオールの地に到達した。ここで,カルティエは先住民から「黄金の国」が存在するという噂を聞いて大いに関心をもったが,その捜索は困難であったため,ケベックで越冬した後に帰国した。
それから5年後,最後の探検となる1541年からの第3回航海は,黄金の国の発見と植民都市の建設を任務として行われた。
カルティエたちは再びケベックに到着した後,探検および植民の事業に着手したが,黄金の国はいっこうに発見できないうえに,フランス人内部の対立や先住民との関係悪化もあって,目的を断念して帰国することになった。
その後
この3回のカナダ探検を終えた後,カルティエは探検活動を引退した。以後,カナダを再び訪れることはないまま,フランスで余生を送って1557年に生涯を終えた。
また,フランスとしても,15世紀の半ばから後半の時期はイタリア戦争やユグノー戦争などの内外の危機に直面していたこともあり,カナダへの探検や植民の事業は約半世紀にわたって中断されることになった。
意義
こうして,結局,カルティエは,本来の目的であった北西航路の開拓はできず,黄金郷の発見や植民事業も果たせなかった。また,先住民を蔑視して傲慢な態度をとり,友好的な関係を築けなかったことにも批判がある。
しかし,カナダを探検して領有を宣言し,セントローレンス湾・セントローレンス川やケベック・モントリオールなどの重要な地を発見・調査したことは,以後のカナダの探検事業の地ならしとなり,フランス領カナダ植民地の基礎を築くことになった。このため,カルティエは,カナダの命名者であることとともに,植民地カナダの発展への道を切り拓いた人物として,カナダや世界の歴史に名前を残すことになった。