ウィリアム・ピット(小ピット) | 大学受験の世界史のフォーラム ― 東大・一橋・外語大・早慶など大学入試の世界史のために ―

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ウィリアム・ピット

<ウィリアム・ピット>


ウィリアム・ピット小ピット)(1759~1806年)は,18世紀末から19世紀初めのイギリスの政治家・首相である。


後に首相として活躍するウィリアム・ピットは,イギリスがフランスとの七年戦争を戦っている最中の1759年に,同名の政治家ウィリアム・ピット(大ピット)の次男としてイングランド南東部で生まれた。小さい頃から体が弱かったが,聡明かつ容姿端麗で,ケンブリッジ大学で学んで20歳で法律家となり,翌年には早くも21歳で父の後を継いで議員になった。

当時のイギリスでは,対外戦争よる財政難や行政と議会の改革運動のために政治が混迷し不安定で短命な政権が続いていたが,そのようななか,1783年に弱冠24歳のピットが国王によって首相に抜擢された。あまりにも若すぎる首相は議員たちから嘲笑されたが,翌年の選挙に大勝して政権の基盤をかため,そして,誰一人予想しなかったことに長期にわたって国政を指導していくことになった。


ピットはもともと改革派を自任しており,税制の改革によって財政を再建するなど多くの改革を実現していった。ところが,海峡の対岸のフランスでフランス革命が勃発したことによって情勢は大きく変動し,それにともなってピットの政策も転換していく。

当初フランスに対して不干渉の姿勢をとっていたピットは,革命が急進化するとともに対外進出へ転じたことを見て,1793年からフランスとの戦争に乗り出した。彼は対仏大同盟の結成を主導し,同盟国とともにフランス包囲網を築いて革命に対抗した。

これと関連して,アイルランドについては,フランスと結びつくことを懸念して1801年にイギリスとの合同を実現した。また,内政では革命の影響の波及を懸念して保守化し,改革運動を抑える方針をとるようになった。

議会でフランスとの開戦を宣言するピット

<議会でフランスとの開戦を宣言するピット>


戦局の悪化や国内の反発に苦慮して1801年にいったん首相を辞任した後,1804年にピットは首相に復帰してナポレオンに立ち向かうが,トラファルガーの海戦では撃退に成功したものの,大陸でのアウステルリッツの戦いでは同盟国側が完敗を喫する。

若い時期から重責を負い続けてきたピットの心身は過労と緊張のために傷ついていたが,そこに敗北の衝撃も加わったためか,まもなく彼は重い病状に陥り,そして1806年,46歳にして,この世を去った。


ピットはイギリス史上最年少で首相になり,そして20年もの長きにわたって国を導いた。戦争の勝利を見届けることはできず国内の改革も中途で断念したが,優れた指導力によって議院内閣制の制度を安定させ,そしてなにより国家の危機に立ち向かい続けた。

国のことを想い続けたピットの最後の言葉は,「ああ祖国よ。どうして祖国を置いて逝くことができるだろうか」というものだった。偉大な指導者の死を悼んだ国民の要望によって彼はウェストミンスター寺院に埋葬され,そこでイギリスの行く末を見守り続けることになった。