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班超

<班超>


班超(32~102年)は,中国の後漢の時代に西域で活躍した武将である。


班超は,後漢の初期にあたる西暦32年,陝西省において,学者の家系に生まれた。兄の班固や妹の班昭は,『漢書』の編纂で知られる高名な歴史学者である。初めは班超も文官の道を目指して学問や読書に励み,兄に従って首都・洛陽へと出た。しかし,彼はしだいに武人として身を立てることを願うようになり,異境の地,特に中国西方の西域において活躍することを志すようになった。

当時,西域の地に分立していた小国家群は,前漢滅亡後の王莽の政権の時代に中国から離反し,かわって匈奴がここに勢力を伸ばしていたが,後漢は73年から西域進出を再開する。そこで匈奴に対する遠征が実施されたが,班超はこれに参加して優れた戦果を上げた。この功績によって彼は西域への使者に選ばれ,以後,西域で活躍していくことになった。


班超は西域に入ると,まず鄯善楼蘭)の国に向かい,少数の兵によって居合わせた匈奴の集団を壊滅させるなどしてこの国を従属させたのを皮切りに,つづいて于闐ホータン)や疏勒カシュガル)も,威迫と計略を巧みに使用して服属させた。まもなく後漢が撤退する方針を決めたことで窮地に陥るが,それでも西域に留まることを決意し,現地の住民たちの支持を得て対立勢力を撃破し,90年頃までに西域諸国をほぼ平定した。

この見事な功績のために,91年には後漢から西域都護の地位に任じられた。まもなく,残っていた焉耆カラシャール)などの対立勢力も降して西域の50余国を服属させ,以後,彼の在任中は後漢に反抗する動きが起こることがなかったという。また,彼は大秦国(ローマ)との直接の交流の可能性を探って部下の甘英を西方へと派遣し,甘英は条支国(シリア)まで到達したと伝えられている。


西域にあって30年余りにわたって任務を果たした後,彼は高齢のために王朝に帰国を願い出て認められ,102年に洛陽へと帰り,そして,その1カ月後に没した。

こうして班超は,宿願を果たして雄飛し功業を遂げ,中国と西域の歴史に名を残した。彼は,勇武と智略の双方に傑出した希代の名将であった。