<フィウメ占領を強行したダヌンツィオ>
<イタリア首相ジョバンニ・ジョリッティ>
「血のクリスマス」は,1920年,アドリア海沿岸の海港都市フィウメで,この地を占領していたダヌンツィオらイタリアの過激派勢力を,イタリア政府が実力で排除した事件である。
第一次世界大戦とフィウメ問題
1914年から第一次世界大戦が起こると,イタリアはいわゆる「未回収のイタリア」などの領土の獲得をはかり,1915年に連合国側とロンドン秘密条約を結んで参戦した。イタリアはこの戦争で苦戦したものの連合国の勝利によって戦勝国となり,その結果,パリ講和会議によって南チロル地方やイストリア地方を獲得した。しかし,この他に獲得を狙っていた,イストリア半島の東の海港都市フィウメ(現在のクロアチアのリエカ)は,新たに成立したユーゴスラヴィアに帰属するものとされ,イタリアの手には入らなかった。
このような領土の決定に対して,イタリアの過激派は強い不満を抱き,戦後のヴェルサイユ体制やそれを受け入れた政府を批判した。そうしたなか,右翼の作家として知られるガブリエーレ・ダヌンツィオの率いる過激派勢力は,1919年9月,実力による奪取をはかってフィウメに侵入して占領し,ユーゴスラヴィアからの独立と独自の政府の樹立を宣言した。
「血のクリスマス」
このようなフィウメの情勢を前に,1920年からジョバンニ・ジョリッティを首相とするイタリア政府はユーゴスラヴィアとの間で外交交渉を行い,同年11月にはラパロ条約を締結してフィウメをどちらの国にも属さない自由市と定めてイタリア系住民の自治権を確保した。こうしてイタリア政府は外交的な方法で問題の解決を行う一方で,政府に従わないフィウメの過激派を排除することを決めた。
1920年の12月24日,イタリア政府はフィウメに軍隊を投入して過激派たちの排除にとりかかった。クリスマスイブからの約一週間にわたる攻防戦を経て,過激派勢力は鎮圧された。この事件を「血のクリスマス」という。
こうして,「血のクリスマス事件」によって,過激派のフィウメを実力で獲得するという野望はいったん打ち砕かれた。しかし,イタリア人のフィウメを求める願望はおさまらず,この後もイタリアはフィウメを狙い続けることになる。