「康熙の暦獄」(「湯若望・楊光先事件」) | 大学受験の世界史のフォーラム ― 東大・一橋・外語大・早慶など大学入試の世界史のために ―

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天文観測を行うイエズス会と康熙帝

<天文観測を行うイエズス会士と康熙帝>

康熙の暦獄」(「湯若望・楊光先事件」)は,中国の清朝において,康熙帝の時代の1660年代に,イエズス会のアダム・シャール(湯若望)たちと中国人の楊光先との間で暦法をめぐって起こった事件である。

イエズス会と暦法

明代末期から清代前半には,マテオ・リッチをはじめとするイエズス会の修道士がキリスト教の伝道のためにヨーロッパから中国に訪れたが,彼らは西欧の技術や学問を中国に伝え,そのなかで西洋の天文学にもとづいた暦法も中国に伝えられた。

明においては元代に作成された授時暦を継承した大統暦が使用されていたが,崇禎帝は西洋の暦法を導入することを決め,これを受けてイエズス会のアダム・シャール(中国名:湯若望)たちは「崇禎暦書」をつくって献上した。

17世紀半ばには明にかわって清が中国を支配するようになったが,イエズス会士は清の宮廷においても引き続き信任を受けて用いられた。清では「崇禎暦書」が「時憲暦」という名称で施行され,シャールは天文を司る欽天監の長官に任命された。

「康熙の暦獄」

このようにイエズス会士は中国の宮廷において重用されたが,このことは中国の伝統的な学問を身につけた中国人の学者・知識人からの反感を買うことになった。こうした状況を背景に,康熙帝の治世の初期にあたる1660年代には,暦をめぐる論争が起こった。

中国伝統の天文学を学んだ楊光先という中国人は,徹底した反西洋の立場に立ち,イエズス会がもたらした西洋の暦法を誤ったものとして糾弾し,西洋式の暦を廃して中国式の暦を復活することを求めた。この訴えを受けて,1664年,アダム・シャールやフェルディナン・フェルビーストらイエズス会士は有罪となって投獄され,またイエズス会を支持する中国人天文学者5人は処刑された。翌年にイエズス会士たちは釈放されたが,シャールは獄中生活の負担もあってまもなく病死した。

なお,イエズス会士たちが失脚した後,楊光先が欽天監の長官に任じられて暦の作成にあたったが,彼はまともな暦をつくるような能力を持ち合わせておらず,今度は逆にフェルビーストらによってその暦の誤りが指摘された。そこで,1668年から1669年にかけて,いずれの暦が正しいかを調べるために康熙帝の御前で公開での観測実験が実施されたが,その結果,西洋式の暦の方に軍配が上がった。

以上のような事件は,「康熙の暦獄」,あるいは「楊光先・湯若望事件」と呼ばれる。こうして,試練を経て西洋式の暦の正しさは証明され,清朝では時憲暦が使用されイエズス会士が天文の任務を委ねられることになった。ただし,この事件を一つの契機として,しだいに中国においてキリスト教に対する警戒は高まっていった。