恵帝<晋> | 大学受験の世界史のフォーラム ― 東大・一橋・外語大・早慶など大学入試の世界史のために ―

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晋の恵帝司馬衷)(位290~306年)は,中国の晋(西晋)の第2代皇帝である。

生い立ちと即位

恵帝こと司馬衷は,晋を創始することになる司馬炎武帝)の次男として生まれた。武帝が晋を建国した後,兄が若くして死んだことから皇太子となり,后として有力者であった賈氏の家の賈后(かこう)を迎えた。

司馬衷は生まれながらに暗愚であり,父の武帝も後継者とすることに心配するようになった。そこで,あるとき,武帝は政治上の問題を司馬衷に出してその能力を試してみたが,このときは妃の賈后が代わりに解答を用意して切り抜け,これによりなんとか皇太子の地位を守ることができたという。

結局,290年に武帝が死去すると,司馬衷は晋の第2代皇帝として即位した。これが晋の恵帝である。

政治

こうして恵帝は皇帝の地位についたが,30歳を過ぎても相変わらずの愚鈍ぶりであった。

彼が即位してまもない頃,飢饉が起こって,多くの民衆が飢えに苦しんだ。そこで大臣が,人民が米を食べることができず困窮しているということを伝えると,恵帝は,不思議そうな顔をして,「米がないなら,どうして肉を食わないのだ」と真剣に尋ねたという。

皇帝がこのような有り様であったために,政治の実権は,恵帝の母にあたる楊太后の一族,楊氏が握ることになった。

賈后の専横と八王の乱

恵帝の后の賈后は,異常な権力欲と猜疑心を持つ女性であった。夫である恵帝の能力に不安を抱いていたこともあって,彼女は,自身の地位と権力を確保するために他の有力者や王族の排除を開始した。

291年,賈后は,政治の実権を掌握していた楊氏を殺し,つづいて新たに実権を握った晋の王族の者をも殺害した。この事件を契機に,晋では,王族8人がかわるがわる挙兵しては権力をめぐって相争う八王の乱が始まることになった。

最期

賈氏のあまりの暴虐ぶりに,300年,他の王族の者が動き,賈氏は誅殺され,恵帝もこのときに捕えられて幽閉された。その後,恵帝は,八王の乱による混乱を経て,306年に食中毒のために死亡した。毒殺とも見られている。

恵帝の死によって八王の乱はいちおう終わったが,この乱の際に兵力として利用された異民族による蜂起が起こって,まもなく西晋は滅亡することになる。こうして,恵帝の暗愚さは,八王の乱を招き,ひいては西晋の滅亡をもたらすことになった。