「三武一宗の法難」(廃仏,排仏,破仏)は,中国史上に起こった主要な仏教弾圧事件を指して呼ぶ言葉である。
背景
中国においては,仏教は後漢の頃に西域を通じて伝来し,魏晋南北朝時代および隋・唐の時代には国家の保護を受けて栄えた。その一方で,仏教勢力は土地などの財産を集め,また税の免除のために僧となる者が多く出るなど,腐敗や弊害も起こるようになった。
こうした状況を背景に,国家の財政難や,中国の伝統的な思想である儒教と道教との対立を契機として,魏晋南北朝時代から五代の時代にかけて,幾度かの大規模な仏教弾圧事件が起こることになった。
北魏の太武帝
5世紀,南北朝時代の北魏の太武帝(位423~452年)は,宰相の崔浩や道士の寇謙之の勧めを受けて道教を厚く信じるようになり,彼らの提案を容れて仏教の弾圧を行った。
446年,太武帝は仏教を弾圧する詔勅を発して,全国で仏僧の殺害や寺院・仏像の破壊を行わせた。
北周の武帝
6世紀には,南北朝時代の北周の武帝(位560~576年)が,儒教による思想の統一や国家の財源の確保のために,仏教の弾圧を行った。
574年,武帝は仏教を禁止して,仏像の破壊や仏僧の還俗(僧をやめて世俗に戻ること)を行わせた。
唐の武宗
9世紀には,唐の武宗(位840~846年)が,外来宗教に対する排斥の動きや国家の財政難を背景として,仏教の弾圧を行った。
845年から,武宗により,当時の年号から「会昌の廃仏」とも呼ばれる弾圧が行われ,多数の寺院が破壊され,また仏僧の還俗や荘園の没収が行われた。
後周の世宗
10世紀には,五代最後の後周の世宗(位954~959年)が,国家体制の整備を進めるなかで,仏教に対する規制を行った。
955年から,世宗は仏教に対する規制を行い,仏教教団から土地や仏像を没収し,また勝手に僧となることを禁止した。
三武一宗の法難
以上の,北魏の太武帝,北周の武帝,唐の武宗,後周の世宗による仏教弾圧事件は,これらの皇帝の名の文字をとって,あわせて「三武一宗の法難」と呼ばれた。