カルタゴは,フェニキア人によってアフリカ北岸に建設され,地中海交易で繁栄した都市である。
成立と発展
カルタゴは,紀元前9世紀後半に,フェニキア人の都市ティルスによって,アフリカ北岸,現在のチュニジア北端に建設されたとされている。
カルタゴは,フェニキア人の植民市の中心的地位に立つようになり,北アフリカ・コルシカ島・サルデーニャ島・イベリア半島など地中海の各地に拠点を築いて商業ネットワークを構築した。また,シチリア島にもギリシアの植民市と争いながら進出を進めた。
こうしてカルタゴは地中海交易で繁栄し,強力な海軍も整え,前3世紀には西地中海の覇権を握るようになっていた。
ローマとの抗争
前3世紀,カルタゴは,イタリア半島統一を完了して地中海進出を目指すローマと激突することになり,ローマ側からはポエニ戦争と呼ばれる戦争が3度にわたって展開されることになった。
前264年,両者の間に位置するシチリア島でギリシア人の植民市シラクサとローマ人傭兵の衝突が起こったのを契機にカルタゴ・ローマの両国が出兵し,これにより第1次ポエニ戦争が開始された。戦いは,緒戦におけるローマの優位の後,カルタゴ側の巻き返しが起こったが,結局は前241年にローマが最終的な勝利をおさめて講和が成立し,シチリア島はローマに割譲されることになった。
カルタゴは敗戦により打撃を被ったが,イベリア半島の経営を進めるなどして急速に国力を回復させていった。そして,前218年には,カルタゴの最高司令官となったハンニバル・バルカが,ローマと同盟を結んでいたイベリア半島の都市を攻撃し,これにより第2次ポエニ戦争の火ぶたが切って落とされた。ハンニバルはアルプス越えを敢行してイタリアに侵入し,前216年のカンナエ(カンネー)の戦いではローマ軍を壊滅させるなど,ローマを苦しめた。しかし,ローマも辛抱強く対応し,将軍プブリウス・コルネリウス・スキピオ(大スキピオ)がイベリア半島を制圧するなど反攻を進めた。そして,前202年,カルタゴ本国において行われた決戦,ザマの戦いではスキピオの前にハンニバルが敗れ,こうして第2次戦争もローマの勝利に終わった。
滅亡
第2次ポエニ戦争の結果,カルタゴは,多額の賠償金の支払いやローマの同意なき軍事行動の禁止などの厳しい制裁を受けたが,その後は再び着実に復興を進めていった。一方,ローマでは,マルクス・ポルキウス・カトーら保守派を中心に,カルタゴを完全に滅ぼすべきとする主張が強まっていく。
軍事行動を禁じられたカルタゴは,西隣に存在した国家ヌミディアから領域侵犯を繰り返し受けており,前149年にはとうとうたまりかねて開戦した。すると,ローマはカルタゴの行動を条約違反であるとして出兵し,これにより第3次ポエニ戦争が起こった。カルタゴは決死の抵抗を試みたが,前146年,ローマの司令官プブリウス・コルネリウス・スキピオ・アエミリアヌス(小スキピオ)の包囲を受けて陥落し,都市は跡形もなく完全に破壊し尽された。
こうして,古代の地中海で長きにわたって繁栄したカルタゴは滅亡し,歴史からその姿を消すことになった。