1517年は,ドイツでマルティン・ルターが「九十五カ条の論題」を発表し,西欧諸国の宗教改革の起点となった年である。
ルターによる「九十五カ条の論題」の発表
1517年,現在のドイツ中東部ザクセン地方のヴィッテンベルク市において,ヴィッテンベルク大学の神学教授だったマルティン・ルターは,教会による贖宥状の販売の是非を問う「九十五カ条の論題」と呼ばれることになる文書を,教会の門に貼り出して発表した。
信仰と教会のあり方の根幹にもつながるこの問題提起は話題を呼び,たちまちドイツ中に広り,波紋を引き起こした。
宗教改革の開始
その後のルターは,『キリスト者の自由』などの著作を精力的に発表し,人は信仰のみによって救済されるとする信仰義認説や,信仰の基礎を聖書に置く福音主義(聖書第一主義),特別な聖職者の地位を否定して全ての信徒が祭司であるとする万人祭司主義などを訴え,プロテスタントの信仰の基礎を確立していった。
1521年には,神聖ローマ皇帝カール5世によってヴォルムス帝国議会に召喚され,自説の撤回を拒んで追放刑を受けたが,ザクセン選帝侯フリードリヒによってヴァルトブルク城にかくまわれて,その間に新約聖書のドイツ語への翻訳などの活動に従事した。
宗教改革の展開
ルターはあくまで神学上の問題として提起を行ったが,それは結果的に,社会や政治の領域にまで影響を及ぼすことになった。
ルターの宗教改革の影響を受けて,1522年には騎士戦争が,1524年から1525年にかけてはドイツ農民戦争が起こり,さらに1526年のシュパイヤー帝国議会以降,神聖ローマ帝国において皇帝・カトリック派諸侯とプロテスタント派の諸侯との間で抗争が展開された。また,スイス・イギリス・フランスなど周囲の諸国にも宗教改革運動は波及していった。
こうして,1517年のルターによる「九十五カ条の論題」の発表は,ドイツ,そして西欧諸国の宗教改革運動の起点となった。