大学受験の世界史のフォーラム ― 東大・一橋・外語大・早慶など大学入試の世界史のために ―

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東大・一橋・外語大・早慶など難関校を中心とする大学受験の世界史の対策・学習を支援するためのサイトです。

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このブログについて

この「大学受験の世界史のフォーラム」は,大学受験世界史の学習に利用できる教材や情報を提供することで,受験生・高校生を支援するためのブログです。古代ローマにおける「フォーラム」(広場)のように,有意義な交流ができる場にできればと思っています。

管理人である東大世界史講師は,東京大学文科一類に入学して東京大学法学部を卒業し,現在,東京・神奈川の大学受験指導機関で,東大を中心とした大学入試対策の世界史を指導している者です。

このブログは,営業ではなく個人的な活動として行っています。(※指導・添削のサービスにご関心をお持ちの方は,「世界史の指導・添削サービスについての情報」をご覧ください。)

お知らせ

更新情報

世界史の新課程の用語集では中国の地方名である「華北・華中・華南・東北」が新たに用語として掲載されましたが,このような地方や省の名称と位置を把握しておくことは中国史を理解するために必要です。

そこで,今回は中国の地方と行政区画を,特に地方の名称に焦点を当てて紹介します。


残念ながら教科書にも資料集にも中国の地方と行政区画をつかむためのよい地図の素材がないため,今回自分でマップを描いて区画と色分けをしたので,その地図も使いながら説明しようと思います。


今回は主に地方名を重視して説明しますが,近いうちに今度は省・自治区・直轄市にフォーカスして,覚えるべき中国の行政区分を紹介しようと思います。


地方区分について


中国は広大なこともあって,省などの行政区画よりもさらに大きな空間的枠組みとして地方を把握することが有効なのですが,区分の仕方にはさまざまなものがあります。

しかし,歴史の学習のうえでは,華北華中華南東北西北西南の6つの地方に分けることが特に有益と思われるので,高校生や受験生はこの6分法で理解しておくことをおすすめします。

下の地図にその6つの地方を表しました。

(なお,領土の帰属をめぐって他国との間で係争中であるなど,領有が確定していない地域は地図から除外しています。)


中国 地方と行政区画 華北・華中・華南・東北・西北・西南

ちなみに,これらの各地方の枠組みは,歴史的・慣用的に形成されてきたものなので,それぞれの地域がどこからどこまでであるというような絶対的な定義や境界はなく,時代によって,あるいは書き手によって,その意味するところは多少異なることがあります。

そのことを踏まえつつ,大まかな位置を把握するために地方の概念を使うのがよいでしょう。


以下,地方ごとに少し説明をします。


華北・華中・華南


華北・華中・華南の地域は,早くから漢民族が支配や抗争を行って「中華」と呼ばれてきた地域で,その名前の通り,中国の歴史において中心的な地域になった。


華北


中国 地方と行政区画 華北

華北は,主に黄河の中・下流域を指し,一般的には現在の山東省山西省河北省河南省などの地が該当する。なお,河南省の西の陝西省はふつう華北には含めないようだが,古代史や中世史を学ぶ際には陝西省もこの地方に含めて考えるとよい。


この地方は黄河文明が生まれた地であり,古代から中国史の中心になり,そのためこの辺りの地域は中原とも呼ばれ,中国の政治の中心になった。


華中


中国 地方と行政区画 華中

華中は,主に長江の中・下流域の地で,江南と呼ばれる地域ともかなりの部分重なっている。


ここは長江文明の発祥の地であり,黄河文明と並んで中国の文明の主な源流となった。


古代には,華北と比べると政治的に重要な役割を果たさなかったが,中世以降に農業や商工業が発展すると中国経済の中心になり,それも背景に政治的重要性も高めていった。


華南


中国 地方と行政区画 華南

華南は,中国の南東の沿岸部を指し,現在の広東省福建省などの地を指す。


広州や泉州のように海港都市が発達して海外との貿易の拠点となったことで有名で,東アジア・東南アジア・インド・西アジア,さらにはヨーロッパとの貿易・交流の窓口になった。


東北・西北・西南


残る東北・西北・西南の3つの地方は,中国史の中心からはやや離れた周縁的な地域であり,漢民族以外の民族が多く,古い時代には中国の領土にも入っていなかったが,後の時代になるとその支配下に入り,また歴史的な重要性を増していった。


東北


中国 地方と行政区画 東北

東北地方は,その名の通り,中国の東北部を指し,現在の黒竜江省吉林省遼寧省の地域を指す。かつては満洲とも呼ばれた。


この地域は,金や清を建国した女真人(後の満洲人)の故郷として知られる。


清の時代には,ロシア帝国と領土をめぐる対立が起こり,ネルチンスク条約などの国境に関する条約が締結されたことも有名である。


そして,もちろん,満州事変を契機に日本が進出して満州国を建国した地でもある。


西北


中国 地方と行政区画 西北

西北地方は,中国の西北の内陸に位置する広大な領域で,現在の甘粛省青海省内モンゴル自治区新疆ウイグル自治区などがあり,チベット人・ウイグル人など漢民族以外の民族の人口が比較的多い。


古い時代にはこれらの地域は中国から西域と呼ばれ,オアシスの道(シルクロード)の主要なルートとなり,しばしば中国王朝や遊牧民の争奪の対象にもなった。


そして,清の時代にはその領有下に入り,清が滅亡して中華民国が成立すると,外モンゴルだけは独立したが,内モンゴルや新疆ウイグル自治区は独立が認められず,現在も自治区となっている。


西南


中国 地方と行政区画 西南

西南地方は,中国西南部の四川省雲南省チベット自治区などの地域で,東南アジアやインドに隣接している。


この地域も,チベット系・東南アジア系などの非漢民族の民族が多い。


チベットは清の時代にその支配下に入り,外モンゴルと同じく清の滅亡後に独立運動が起こったが,中華人民共和国の成立後に支配下に入れられて自治区とされた。



新課程の世界史(世界史探究)の教科書・用語集で新たに採用された語句を順に紹介していきます。


今回は,用語集に新しく追加された「スンダ海峡ルート」を紹介します。

東南アジアにおける東西を結ぶ海上ルートの一つとして重要です。


スンダ海峡は東南アジアのスマトラとジャワ島の間の海峡で,スンダ海峡ルートはスンダ海峡を通じて東西を結ぶ海上交通ルートである。


スンダ海峡


スンダ海峡

スンダ海峡は,東南アジア諸島部,インドネシアのスマトラ島とジャワ島の間にはさまれた海峡である。


海峡の幅は25~100km程度,長さは150km,水深は60~80mで,海峡のなかには火山島が多く存在している。


海峡には狭い部分があり,また島も点在するために,航で通行することは容易ではなく,古い時代にはあまり使用されなかったが,16世紀にマラッカ海峡ルートに支障が生じたこともあって海上貿易ルートとして注目されるようになった。


マラッカ海峡ルートとその動揺(7世紀頃~16世紀初め)


スンダ海峡

インド洋と太平洋を結ぶ東南アジアの海域では,古くから東西を結ぶ海上貿易が行われていたが,特に7世紀頃からはマレー半島とジャワ島の間のマラッカ海峡を横断するマラッカ海峡ルートが利用されるようになり,海上貿易が発展してシュリーヴィジャヤ王国などマラッカ海峡周辺を掌握した港市国家が繁栄した。


そして,15世紀から大交易時代とも呼ばれる海上交易が活発な時代に入ると,マラッカ海峡ルートはさらなる発展を見せ,海港都市マラッカを拠点としたマラッカ王国が中継貿易によって栄え,ムスリム商人たちが東南アジア各地の港市で活躍した。


ところが,16世紀に香辛料獲得などを狙って進出してきたポルトガルは,この海域の貿易を掌握することを狙って1511年にマラッカを占領し,マラッカ王国を滅ぼした。


ポルトガルは,東南アジアの最大の交通の要衝であるマラッカをおさえることで,香辛料などこの地域の商品の貿易を独占することをはかったのである。


スンダ海峡ルート(16世紀~)


マラッカ海峡とスンダ海峡

ところが,現地のムスリム商人たちは,ポルトガルに対抗して,別の海上ルートを開拓する。


彼らは,ポルトガルの支配下に入ったマラッカ海峡を避けて,スマトラ島とジャワ島の間のスンダ海峡を通過するスンダ海峡ルートを開拓し,これを使用するようになった。


このように交易ルートに変化が起こった結果,スマトラ島の西岸部やジャワ島の西部も寄港地としてのニーズが高まり,これを背景としてスマトラ島のアチェ王国やジャワ島のバンテン王国が海上貿易によって発展していった。


こうして,ポルトガルによる東南アジア貿易独占の試みはムスリム商人の対抗のために失敗し,東南アジア海域における貿易のネットワークはマラッカ海峡だけでなくスンダ海峡ルートなども使用した多元的なものへと変化することになった。



新課程の世界史(世界史探究)の教科書・用語集で新たに採用された語句を順に紹介していきます。


今回は,用語集に新しく追加された「ポンド」を紹介します。

現在もイギリスで使われている有名な通貨ですね。



ポンドスターリング・ポンド)は,イギリスの通貨であり,世界の主要通貨の一つである。


前近代(17世紀まで)


イギリスの通貨として知られるポンドは,古代や中世に使用されていた貨幣の重さを表すための単位に由来し,しだいにイギリスの通貨そのものを指すようになった。


ポンドという言葉は,本来は古代ローマで使用されていた「重さ」を意味する言葉で,そこから重さの単位を表すようになり,ローマ帝国支配下に入ったイギリスにも伝わった。


そして,中世のイギリスでは,スターリングと呼ばれる貨幣が使用されていたが,ポンドはその貨幣の重さを示す単位として使用され,このように通貨の単位として使用されているうち,しだいにポンドはイギリスの貨幣そのもののことも指すようになった。


近代(19世紀~20世紀初め)


イギリスが世界の覇権を握った19世紀から20世紀初めに,ポンドの貨幣としての制度は整備され,世界の基軸通貨となった。


イギリスは,1816年にポンドと金の交換を保証する制度を開始し,翌年には金との交換が可能なソブリン金貨を発行したが,これが世界における公的な金本位制の始まりとなった。


ソブリン金貨

<ソブリン金貨>


そして,19世紀半ばから後半には,金との交換保証による高い信頼のうえ,イギリスが世界経済の覇権を握ったこともあって,ポンドは世界の基軸通貨となって世界中で取引され,世界の貿易や金融を支えた。


20世紀


ところが,20世紀の二つの世界大戦を契機にイギリスは打撃を受け,ポンドの地位も衰えていく。


第一次世界大戦の結果,イギリスが戦争で経済的な打撃を受けたことでポンドの信用は衰え,かわって大きく勢力を伸ばしたアメリカの通貨であるドルの地位が上昇した。


つづいて,1929年に世界恐慌が起こった後,1931年にイギリスは金本位制を離脱し,これによってポンドへの信頼はさらに揺らいだ。


そして,第二次世界大戦でイギリスはさらに大きな打撃を受けて,これによってポンドの没落は決定的になり,アメリカのドルが世界の基軸通貨となっていった。


第二次世界大戦後にはブレトン・ウッズ体制のもとでドルを基軸通貨とした固定相場制がとられたが,貿易赤字に苦しんだイギリスは1949年・1967年とポンドを切り下げ,ポンドの価値と信用はますます下がっていった。


現在


こうして,ポンドはかつてのような基軸通貨としての地位は失ったが,それでも現在も世界の主要な通貨の一つとしての地位は維持している。


イギリスは,20世紀後半にECおよびEUに加盟したが,EUの共通通貨であるユーロを導入することは拒んでポンドの使用を維持し,現在までもずっと使用され続けている。


現在,ポンドは世界の外国為替市場において,米ドル・ユーロ・日本円に次いで世界4位の取引量をもつ主要通貨の一つになっており,俗に「殺人通貨」とも呼ばれるように値動きが大きく,投機を目的とした取引で人気であるのとともにリスクも大きいことで知られている。


世界の通貨の流通量ランキング(2022年度)

第二次世界大戦以降,ポンドは米ドルや日本円など主要通貨に対して下落トレンドが長く続いており,近年ではブレグジット,すなわちEU離脱の決定によってさらに下落が起こったが,EU離脱後のこれから,ポンドの地位がさらに下落を続けるのか,あるいは回復が起こるのか,注目される。


英ポンド/米ドルの為替レート 1950~2024


英ポンド/日本円の為替レート 1950~2024