運命の分かれ道 その三 | 林泉居

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男と女の間には、深くて暗い溝がある。という歌がありましたが
運命の分かれ道と聞いて誰しも身に覚えがあるのではないかと思うのですが、そう言われてピンと来るものに男と女の出会いと別れがあるのではないかと思います。古来神話の世界から、また今日に至っても絶えず物語や小説、それに和歌に至るまで主要なテーマとして取り上げられ、果ては噂話にも上り、これが人を惹きつけて止まないにはそれなりの深い意味があるからだろうと思います。

 

 

             

 

男と女といいますか、あるいは♂と♀といいますか、その触れ合いは、自己保存本能に
根づく最も重要なテーマの一つです。これこそは私達が延々と気の遠くなる
ような年月に渡って血を受け継いできたエネルギーの源です。人間ばかりではな
く動物の世界においても子孫を残すために激しく命の炎を燃やします。鮭などのように
生殖行動の後に静かに一生を終える動物もいますし、メスを獲得するために♂どうしの
激しい戦いが繰り広げられたりします。人間の世界でもこの事にまつわる物語は文学の
重要なテーマでした。神話の世界では、イザナギがお産の事故で死んだ妻イザナミを忘れられず黄泉の国まで追いかけていきますが、そこで変わり果てたイザナミの姿を見て恐れおののき命からがら娑婆に舞い戻るという話しがありました。世界的にも評価の高い源氏物語もまた男と女の色恋沙汰に多くの紙面が割かれています。

 

男と女の熱情は一度燃え上がるとどうにもその火を消すことが出来ません。ですから
文字通りの命がけの恋に落ちることもしばしばあるわけです。江戸時代のように
不義密通は死罪とされていても止むことはありませんでした。井原西鶴は、彼の作品
「好色5人女」お夏・清十郎物語で「恋は闇、夜を昼の国昼を夜の国」とうたいました。
お夏と清十郎は駆け落ちの末、清十郎は盗っ人の濡れ衣を着せられて打ち首となります。

お夏はショックのあまり狂ってしまいます。
これは実際にあった事件を題材にしたようですから、恋は人を狂わせるというのは真実なのでしょう。

 

「お医者様でも草津の湯でも惚れた病は治りゃせぬ」の喩えもあるように人の熱情の前
には仏の教えもキリスト教の神の戒めも時折力を失うのです。

 

19世紀のフランスの作家スタンダールの代表作「赤と黒」では世間知らずのレナル町長夫人が美青年の家庭教師ジュリアン・ソレルとただならぬ不倫の恋に陥り、終いにはジュリアンはギロチンの露と消え、レナル夫人はジュリアンに撃たれた傷がもとでジュリアンの後を追うように死んでしまいます。これもモデルになった事件があるようです。男と女の熱情は、燃え上がると本当にやっかいなものです。自己犠牲をも厭わないのですからどこか宗教にのめり込んだ敬虔なる信者にも似た心情に浸っているのかも知れません。死んで花実が咲くものかというのは普通の人間が冷静になっている時にしか分からない言葉なんでしょうね。
 

以上の恋物語は、悲劇の部類に入る物語と言えるかも知れませんが、もう少し現代的なのでは、
 

 

 

フランスのミュージカル映画にシェルブールの雨傘というのがありました。カトリーヌドヌーブがヒロインを演じた映画で人気を博しました。設定は、ジュヌヴィエーヴ17歳ギイ20歳の恋物語です。恋に落ちた若い二人は、花園に舞う蝶々のように幸せな日々を送りますが、それも束の間、ギイに召集令状が届きます。束の間の別れにも絶えられないジュヌヴィエーヴですが、泣いて別れを拒んだところで国からの招集令状に抗うことは出来ません。ギイは、後ろ髪を引かれる思いを振り切って2年間のアルジェリア戦争の兵役に就きます。ミュージカルですからジュヌヴィエーヴは、ここで涙ながらに歌います。


Non je ne pourrai jamais vivre sans toi
Je ne pourrai pas, ne pars pas, j'en mourrai
Un instant sans toi et je n'existe pas
Mais mon amour ne me quitte pas
Mon amour je t'attendrai toute ma vie♪♪♪


こういうのを日本語に訳すとかなり背中にむずむずしたものを感じるのですが、敢えて日本語に置き換えますと

 

 


「あなた無しじゃ生きていけないの、だめよ行かないで、私死んじゃうわ」
「束の間でもあなたなしでは生きていけないの 愛しい人、だから行かないで」

「私一生あなたを待つわ・・・」ということだったのですが、その時にジュヌヴィエー
ヴは身ごもっていたのです。もちろんギイとの間の子供です。


ジュヌヴィエーヴの家にもいろいろと事情があったのですが、結局のところ一年経つか立たないかというところで他の金持ちの宝石商の求婚を受け容れて一家共々影も形も残さずシェルブールから消え去ってしまいます。
 

別れて2年の月日がが経ったところで足に傷を負ったギイが戦場から帰ってきます。ところが愛しいジュヌヴィエーヴの姿はどこにもありません。女の言葉を信じた男は落ち込んでしまいます。当然でしょうね。

 

 

 

 

このあたりは、尾崎紅葉の「金色夜叉」のお宮と貫一の別れを思い起こさせます。お宮は、かわいそうに寛一に足蹴にされてしまいましたが、ジュヌヴィエーヴは幸運にも先に旅立っていました。「女心と秋の空」とは名言です。こうした物語は、バルザックならば人間喜劇の一コマとして皮肉たっぷりに筆を振るってしまうのではないかと思います。時代の進歩と共に男と女の関係もどんどんどんどん変化して行きます。「男と女の間には、深くて暗い溝がある」です。人生は皮肉に満ちているのです。
 

 

 

人の世の運命の分かれ道がどこに待ち受けているのか窺い知ることは出来ません。蓋を開けてみなければ結果が分からないことがあります。シュレジンガーの猫みたいなものでしょうか。人間の叡智をもってしても一瞬先の結果を見通すことはなかなか難しいことです。

 

そんなこんなで人は時々占いに頼ったり神にすがったりしますが、サイコロを振るようなものかも知れません。
 

ところで、運命とはなんでしょうか。本当に運命などというものがあるのでしょうか。もしも生まれ落ちた時から定められた運命に従って人が生きているものとしたら生きることに何の意味があるでしょうか。人は何故自由を求めるのでしょうか。如何なる人間も奴隷のように支配されることを嫌います。自分の意思で生きたいと願うからに他なりません。自分の意思で生きたいと願う人間は、自分自身をよく見つめ直し自分で道を切り開いて進む人間なのだろうと思います。そうすると彼は、自分の選ぶ道は全て自分が責任を負わねばならないという結論に達するはずです。そして、その覚悟が身についたならば、最後の最後は自分の人生に納得して終わりを迎えられるものと、私は信じています。