運命の分かれ道 その四 | 林泉居

林泉居

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逃げた魚は大きいと申します。確かにそうかも知れません。おもむろに釣り糸を垂らして予期せぬ手応えに竿を握りしめて、よし、逃がすまいとがむしゃらに引き上げた途端ぷつりと釣り糸が切れて今宵の肴を取り逃がしてしまいます。そんな径験は、何年も心に刻まれることさえあります。もしも三日も何も食べていない時にそのような径験をすれば、悔しさは如何ばかりに達するでしょうか。


しかし、もし逃がさなかったら思いは別の所に置かれることになるでしょう。逃げたからこそ魚に対する思いが膨れあがるのだろうと思います。男と女の逃げた幸せも同じです。もしもお夏と清十郎が添い遂げていたら、もしもお宮と貫一が添い遂げていたら、もしもレナル町長夫人とジュリアン・ソレルが・・・と考え始めると際限がありませんが、多分いずれのカップルもやがて目の前に突き付けられる現実にこんな筈ではなかったろうとため息を吐くことになるに違いありません。そんなことはあるものかと反発する人も多いかも知れませんが、情動というものは乗り越える壁、つまり障害物がなくなるとそう長く保ち続けることは出来ないのです。熱く燃えさかったものは急速にその燃料を減らし、やがて燃え尽きて冷えていきます。燃えさかった時が熱ければ熱いほど冷えた時はより一層冷たく感じられるものです。そのギャップに苦しみは正比例するかも知れません。
 

逃げた魚が大きくなるのは、その心の中で成長するからです。俗に言う無い物ねだりと似たようなものかも知れません。人生の時間を取り戻すことは出来ません。どの道を選ぼうが、判断決断の結果は、全て自分が背負うのです。
 

 

19世紀、1830年代のパリの人間模様を描いたバルザックの名作に「ゴリオ爺さん[Le Père Goriot]」というドラマがあります。没落貴族の家に生まれた若い法学部の学生ラスティニャックが見た華麗なパリの社交界の裏表と彼の下宿ヴォケール館というペンションの住人が繰りなすドラマです。華やかな社交界の貴族と彼らを取り巻く人間模様その光と影が織りなす悲喜劇をバルザックがみごとに活写しています。バルザックが見つめる人間性というものは、喜劇でもあり、悲劇でもあり、また哲学的でもありまして、人生の皮肉、運命の分かれ道が彼の鋭い人間性に対する洞察力をもって描かれています。

 

この物語の中に男と女の運命の分かれ道とも言えるワンシーンを描写した一コマがあります。ラスティニャックと彼に思いを寄せる若い娘ヴィクトリーヌを描いた場面です。ヴィクトリーヌは、姓をタイユフェールといい父親は、パリでも有数の資産家でした。ところがこの父親が冷淡な強欲もので自分の財産を全て一人息子に譲り渡したいがために、実の娘であるにもかかわらずヴィクトリーヌを冷遇し遺産相続人として認めませんでした。これに怒ったお尋ね者のヴォートランが一計を講じてヴィクトリーヌにタイユフェール家の財産を相続させようと企みます。その上でヴィクトリーヌとラスティニャックを取り結び哀れな娘の幸せを叶えてやろうとするのです。

 

ヴォートランの策略というのは、唯一の相続人であるタイユフェールの息子フレデリックをイタリア軍人フンランチェシュッシーニ大佐との決闘に引っ張り出して殺させることでした。タイユフェールの息子フレデリックは剣の使い手でしたから挑発に乗ったあげく決闘をする羽目に陥ります。ヴォートランは自分のあみ出した剣の業をフランチェシュッシーニに教えます。そして決闘の日ヴォートランの策略は功を奏してタイユフェールの息子は眉間を突き刺されてあえなく絶命してしまいます。似たような話が以前ご紹介した「ジャルナックの一撃」にありました。男の自信は、自惚れに過ぎません。これが往々にして命取りになるのです。徳川家康は、「勝つ事ばかり知りて負くることを知らざれば害その身に及ぶ・・」と戒めています。思うに織田信長のことが頭にあったのではないでしょうか。
 

話しをゴリオ爺さんに戻しますと、ヴォートランの策略のひとつヴィクトリーヌを相続人に据える事には成功したのです。決闘の前日ヴォートランは、機会を捉えてヴィクトリーヌの手相占いをします。そして彼女が近々大金持ちになることと思いを寄せるラスティニャックと結ばれるだろうと予言するのです。その予言の一つは的中するのですが、肝心のラスティニャックとの縁結びは失敗します。ラスティニャックは、ゴリオ爺さんの下の娘デルフィーヌを選んでしまうのです。男の人生も女の人生も全てを手に入れることは適いません。手に余る魚は、逃げてしまいます。そして逃がした魚は、心の中で大きく大きく成長して行くのです。