この続きです。
ヨークミンスターの荘厳さにすっかり魅了された私は、帰るまでにもう一度行きたいと思った。
メインの大きな礼拝堂の裏手あたりも歩いてみたい。
昼間はセミナーで時間がない。
夕方は食事をしたりで忙しい。
そう思って、朝早く再訪した。
そんなふうにふらりと行ったのだから、当時、大聖堂は特に拝観料もなく、開かれていたのだと思う。
小さなお御堂では、ミサ?をしていた。
地元の方々のようだ。
20人足らずの人が集まっていた。
神父さま?牧師さま?司教さま?それとも、そのどれでもなかったのかもしれない。
つまり司会の方が前にいらして、何やらお話をなさっている(たぶん説教)。
少しその空間に身を置きたくて、立っているのも失礼かと思い、最後列の端っこの空いている椅子にそっと座った。
言葉はほとんど聞き取れず、何を言っているのか全くわからなかった。
そのうち、交互に言葉を発する問答的なものが始まった。
何かを読んでいるのか? 聖書の一節などを交互に暗誦しているのか?
少し居心地が悪くなり、そおっと席を立った。
昔、牧師さんが、
『教会は、いつでも誰にでも開かれています』
とおっしゃっていたのを思い出して、隅っこにお邪魔したのだけれど、失礼になっていたのではないかと気掛かりのままである。
ヨークを後にする日、セミナーでお世話になった先生が、駅まで見送りに来てくれた。
ホームから窓越しに、綺麗な薔薇の表紙のノートを渡してくれた。
あのノートは、どこに置いただろう。
たった数日、ヨークで過ごしただけなのに、列車がロンドンに着いてタクシーに乗ろうとしたら、もう周りの雰囲気が違うことに気付いた。
なんと言うか、空気がピリピリしている。
鞄をしっかり持って、神経を尖らせて、油断をしないようにサッサと歩く。
ヨークに行く前のロンドンは、そんなに治安が悪いとも思っていなかったし、日本ではないので緊張はしていても、そこまでではなかった。
ヨークのおおらかさと温かさに、甘やかされてしまったか。
あれからもう20数年。
古き良き美しいヨークの街は今、どうなっているだろう?
ミンスターも城壁も石畳の道も、あのままだろうか。
それともあちこちに、近代化の波が来ているだろうか。
生きているうちに、もう一度行きたい。
どういうわけかあの街に、魂の片鱗を置いてきたような気がする。
それを回収しに行きたい。
でももしかしたら、思い出の箱はそっと閉じておいた方が良いのかもしれない。