今日は私の好きな石原莞爾の話を少しばかり。。
石原莞爾という人は、ご存知ですか?
満州事変の首謀者でもあります。
「戦争の天才」「悲劇の将軍」や様々な呼ばれかたをしておりますが、東京裁判の痛快な発言は、まさしく天才かつ思想家であり漢。。
今回は、こんな日本人もいた事を、簡単に綴り、主に東京裁判のエピソードに焦点をあてます。
石原莞爾は、成績が抜群優秀、しかし、奇人で切れ者すぎて扱いにくい性格でした。
東條英機とも確執がありました。
本人を目の前にして「君には戦争指導などとても無理なので、一日も早く首相をやめるべきだ」と言い放ちます。
それも影響したはずです。事実上、石原は陸軍を去ることになります。
そして、終戦を迎え日本を待ち受けていたのは東京裁判「極東国際軍事裁判」です。
日本に不利で公平ではない裁判なのは、ご存知のことかと思います。
石原は東京裁判に証言として出廷します。
戦勝国としては、東條英機をA級戦犯に持ち込みたいため、確執のあった石原に東條に不利な証言させようとしたのです。
しかし、その目論見は、完全に崩れます。
まず、石原は、東京裁判に出廷を命ぜられると
「俺は病気だ。話を聞きたいならお前たちがこい!」と言って、東北の田舎まで呼びつけるという異例の裁判です。
裁判官:証人石原、何か聞きたいことは?
石原:満州事変を起こしたのは俺だ!なぜ俺を裁かんのだ!まだある。アメリカは、日本の戦争責任を随分、古くまで遡ろうてしているようだか、一体いつまで遡るつもりなのか?
裁判官:日本が行った侵略戦争全てです。できれば 日清戦争、日露戦争までさかのぼりたいです。
石原:ならばペリーを連れて来い!日本は、鎖国してたんだ。それを無理やり開国させたのはペリーだろう。
裁判官:21倍の中国軍に対し勝てるとは思えないが 無謀な計画ではないですか?
石原:君に教えてやろう。戦争は数ではない。作戦だ。もし私がこの戦争を指揮していれば その裁判長の席にいたのは私で、ここに立っていたのは君だ。
裁判官:あなたは、東條英機と思想上の対立があったとききます。
石原:ない。
裁判官:あなたは、東條と対立していたはずです。
石原:対立はしてたさ。しかし、それは思想上の問題ではない。何故なら東條の馬鹿には思想などというものはない。私には少なからずある。
裁判官:最後の質問です。今回の戦争で最も罪深い戦争犯罪者は、誰だと思いますか?
石原:それならアメリカ大統領トルーマンである!なんの罪もない民間人を原爆で殺しまくり20万人も殺してそれが正義だと言えるのか!
裁判長は、裁判記録の破棄を命じ、そのまま裁判を終わらせました。
ある記者が、石川のもとに駆け寄りました。
「将軍、私は嬉しかったです。
日本が戦争に負けて、それまで偉そうにしていた指導者達が手のひらを返すようにおどおど、ぺこぺこして答弁する様子を見てきました。
それは非常に悲しい光景でした。ですが、今日の裁判の様子、将軍の発言を聞いて胸がすく思いがしました。」
記者に「私はもう将軍ではないよ」と石原は答えたそうです。
敗戦後の指導者の中には、部下に責任を押し付け保身を図る者が少なくありませんでした。
そんな中で石原のように日本人としてプライドを貫いた人物もいました。
石原が亡くなったのが、終戦記念日8月15日というのも、運命めいたものを感じます。。
「カッケェ〜なぁ。。石原莞爾。。」
と友人と話したりするわけ(当然こんな話、男友達としか盛り上がらん)だが、しかし、いい年こいてるのに、いつもぬいぐるみを抱えている旦那ちゃまは、そんな話には全く興味がありません。。
旦那ちゃまは、歴史や世の中についても興味ない、趣味ぬいぐるみのファンシーなものが大好きっこ。。もしかして、人間世界で生きてないかもしれない。。東北大震災があった時、東京にいたらしく高層ビルの窓から見えた波打つ地面をみて「トトロが来る!!」と飛び跳ねて、大声で叫んでたらしい。。(伝説です。。)
さてさて、そんな旦那ちゃまに話したところで「馬の耳に念仏」の石原莞爾のかっちょえーピソードはまだあるのですが、今日はこの辺で。。
「理想と現実は違う」
とでも言って締めくくりましょうか。。
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