24 主よ。あなたの知恵で、さまざまな営みができ上がり、
地は豊かに満ちあふれています。

25 目の前に開ける広大な海には、
大小さまざま、
ありとあらゆる生き物が生息しています。
26 海を見れば船が行き交い、
沖合にはくじらが戯れています。
27 生き物はみな、
あなたが下さる食物を待っています。
28 そして、配られた食物を満腹するまで食べるのです。
29 もし、あなたのそのような配慮がなければ、
彼らは途方にくれ、飢え死にするしかありません。

30 あなたが御霊を送られると、
新しいいのちが誕生します

31 主をいつまでもほめたたえなさい。
主は、ご自分の手のわざを喜んでおられるのです。
32 主に見つめられると、大地はすくみ上がり、
神の手が少しでも触れれば、山は噴火するのです。
33 私は息を引き取るその時まで、主をたたえ続けます。
34 どうか、この思いが神に喜ばれますように。
私にとって、主は喜びの泉なのです。
35 神などどうでもいいと思っている罪人たちはみな、
地上から消え去りますように。
しかしこの私は、主をほめたたえます

ハレルヤ。

 

いのちは聖霊によって与えられている。

このことを思わされます。

 

脳が機能する、心臓が動く、肺が呼吸する、消化器や循環器は栄養をエネルギーとして体に回して維持されている。

ではいのちって何なのか。人間の体は、そのようなメカによって動いているだけではなく、いのちがあってこそ駆動します。

 

アダムは、神が息を吹き込むことによっていのちを宿しました。

土くれが人になった瞬間です。あれが聖霊でしょう。

そうすると、全ての人のいのちは、神のあの聖霊が宿っているということです。

 

私がこの詩編104編から総じて感じさせられるのは、人のいのちとそれ以外のいのちの差、です。神は確かにその人を自然界の中に特別な存在とされているということです。

それはその知性の差によって見える形になっています。

 

ところが非常に残念なことは、その知性によって、神の存在から遠ざかろうとしていることです。

動植物、他自然環境である海も山も、知性において人より劣るか知性など無いのです。それらにとっては、神は神という存在でしかありません。肯定も否定もありません。

特別ないのちを与えられた人だけが、神を否定しています。

 

色々と思う事がありますが、結論は、神が人を創造された理由への探求です。

それは果てしないのですが、人として正しい答えは、まさに「この私は神をほめたたえますハレルヤ」です。

 

「君は愛されるために生まれた」という賛美があります。

一つ思い出があります。

まだ、教会に行き始めてそんなに時間が経たない頃、誕生日であったか、何かの日であったかは忘れましたが、私は教会での礼拝の終りに立たされたのですが、この歌を皆で私(たち?)に歌ってくれたのです。多くの人が私に両手を差し伸べるようにしていました。

殺伐としたところで生きていたもので、そういうのは初めてで、何かこそばいような場違いなような気がして居心地が良くなかったのですが、同時に、そういうコミュニティに自分が身を投じていること、その人たちが信じているものの空気感を感じとるようでした。

 

神は愛です。愛とは対象があってこそ成立するものではないですか。人はその対象として創造されたことだけは、間違いないということです。「君は愛されるために生まれた」のです。

神の愛は、時に見える愛となってあらわれますが、その完全な形がキリストイエスです。あの出来事、十字架での死と復活を自分のための出来事であると受け取ることは、神の愛を受け取ることになります。

 

人間は、自然界の中で唯一、神を否定していますが、唯一神を肯定し得る存在でもあるということです。

それは、神の愛を受け取ることによってのみなされることを、強く思わされるみことばでした。