谷には泉を、山には渓流を、神は配置なさいます。
11 あらゆる獣はそこでのどを潤し、
野ろばは渇きをいやします。
12 鳥は渓流のほとりに巣を作り、
木々のこずえでさえずります。
13 神は山々に雨を降り注ぎ、
地を果物の宝庫となさいます。
14 そのひと言で、
家畜の食べる柔らかい草が生え、
人の糧となる果樹や野菜、それに穀物も育ちます。
15 また、喜びをもたらすぶどう酒、
皮膚をつややかにするオリーブ油、
力の源となるパンも作ることができます。
16 主がお植えになったレバノン杉は、
すくすくと伸び、みごとな大木に成長しました。
17 そこには鳥が巣を作り、
こうのとりは、もみの木に宿ります。
18 高原には野やぎの牧草地があり、
岩だぬきは、岩の間を隠れ場にしています。

19 主は、月を造ってひと月の長さを定め、
一日を区切る目じるしとして太陽を置かれました。
20 神が夜をもたらし、闇を送ると、
森の獣たちはいっせいに出て来ます。
21 若いライオンは、獲物を求めてほえたけります。
しかし、神の助けなしに、
食物にありつくことはありません。
22 明け方近く、獣たちはほら穴に引き返して横になり、
23 入れ替わりに、人間が一日の仕事を始め、
夕暮れまで働きます。

 

昨日のQTで、神は被造物の中心に人を置かれているようだと思ったのですが、今日は、その人ではない部分、自然の部分がいかにシステムとしてデザインされたものなのかを思わされるところです。しかも、それは細部まで緻密にデザインされているのです。

手抜きによる曖昧さなどは一切なく、全てが必要として関連しあう調和の美を感じますね。

 

そして、人をその中心に置かれているというのは、そのシステムの中に組み込まれていると同時に、神側に高い目線や知性が与えられている存在です。

そこから知れるのは、自然の管理能力が与えられているということです。

これ、大事じゃないですか。自然管理を委託されているとも言えますし、テストされているとも言えます。神は、ご自分の手が回らないから人に委託するのではありませんからね。

 

ではその委託されるかテストされている人がもし、そうとも知らず、偶然の産物として自然を扱い、人間のためなら何をしてもよいのだと考えればどうでしょうか。

神は自然をも限界のあるものとして作られていますから、その限界のあるものを人間が取り合うことになるのかなと思います。

まず、神を覚えること。精工な時計のように、秩序をもって作成されたこの自然システムを、人間は利用することは出来ても、自分たちのものだと割り切って→神などいないと割り切って、好き放題にすることはゆるされていないはずです。テスト不合格です。

ガラクタを集めて何億年もかきまぜ続けたら、精工な時計が出来上がるのですか?進化論とは、それが「できる」という”思想”です。そして、神などいないという宗教の原点ですが、日本ではこれが当然のこととして教育されています。

※時計の話は、私が習っていた理科の先生がよく言っていたことです。クリスチャンです。科学と信仰は水と油のような相容れないものと感じるものですが、科学的に突き詰めていくほど神を知る、というのがその先生の信仰の原点だと仰っていました。クリスチャンの知り合いでお医者の方がいらっしゃいますが、人間の体のことを知れば知るほど神の存在を感じた、とのことでした。

 

この秩序ある自然から”神の手”を察知し、自然に依存しなければ生命を保てないという人間の限界知り、取り合うのではなく、感謝と畏敬によって維持管理する方向へと向かわなければなりません。

 

期せずして、そんな考えに辿り着いたのですが、御心だと思います。

今日は、ほんの少しでも自然を大切にする方向へと動き出す日にしたいと思います。