あっち~…
本日お江戸は夏日となりました。
今日は『服装』に関する話がちらほら。
まずは陣羽織り!

今、大抵、陣羽織りといえば、立て襟、袖なし、折り返し付き、キンキラキン
ってのが『定番』
まあそれが一般的ではありましたが、古い資料をみますと『法被』と記され、伊達政宗や小早川秀秋のものの様に『袖付き』も多かった様です。
もともと防寒用に羽織っていたものを安土桃山時代に『識別用』に特化させたのが起こりの様です。
結構いろんな形がありました。
足軽羽織り、または白羽織りと呼ばれる『そんなに偉くない人』の羽織り

シンプルで、育ちがいい武将の『若い頃』用にも使います。
こちらは箇所箇所を革で補強してある黒羽織り!
忍の統領なんかで使います

陣羽織りにも、この時代よろしく『統一基準』みたいなものがない!
当世具足も、人によっては『俺は伊予札で大袖!』とか
『仏胴で細袴』とか
カスタムはアリでしたし♪
陣羽織りも、戦国末期くらいから存在意義が自分象徴から『権威の象徴』に移行します。
これは幕末まで受け継がれ、鳥羽伏見の戦いなどでは土佐薩摩長州などの、いわゆる『官軍』勢は洋装に陣羽織りに『赤熊(赭熊)しゃぐま』なんてのが。
このズボンタイプの兵士は高島秋帆が始まりと言われます。
幕府はきっちり演習をこなした秋帆に『洋装なんて以っての外!』と難癖付けましたが、実は秋帆の用いたのは紺股引き(祭りパッチ)に筒袖、コレ空手や剣道の、いわゆる『胴着』
足元も脚半に足袋鞋といったもの。
これらは『職人』らの格好で、それまで『戦は武士の特権』と考えてたお偉いさんには『とんでもない』事だったんです。
『官』が形骸化で『実』を考えられなくなり、ダメになっていったいい例ですね。
そんな事してたので、その後、トコトンヤレ節に乗り『農兵論』の大村益次郎が率いた平民軍隊に江戸幕府はトドメを刺されます。
この頃、南北戦争で儲けたグラバーらが払い下げの武器と共に、ズボンを持ち込み、戦の後もそれが軍、警察に下ろされ、後に『学生服』となっていきましたという話♪
本日お江戸は夏日となりました。
今日は『服装』に関する話がちらほら。
まずは陣羽織り!

今、大抵、陣羽織りといえば、立て襟、袖なし、折り返し付き、キンキラキン
ってのが『定番』
まあそれが一般的ではありましたが、古い資料をみますと『法被』と記され、伊達政宗や小早川秀秋のものの様に『袖付き』も多かった様です。
もともと防寒用に羽織っていたものを安土桃山時代に『識別用』に特化させたのが起こりの様です。
結構いろんな形がありました。
足軽羽織り、または白羽織りと呼ばれる『そんなに偉くない人』の羽織り

シンプルで、育ちがいい武将の『若い頃』用にも使います。
こちらは箇所箇所を革で補強してある黒羽織り!
忍の統領なんかで使います

陣羽織りにも、この時代よろしく『統一基準』みたいなものがない!
当世具足も、人によっては『俺は伊予札で大袖!』とか
『仏胴で細袴』とか
カスタムはアリでしたし♪
陣羽織りも、戦国末期くらいから存在意義が自分象徴から『権威の象徴』に移行します。
これは幕末まで受け継がれ、鳥羽伏見の戦いなどでは土佐薩摩長州などの、いわゆる『官軍』勢は洋装に陣羽織りに『赤熊(赭熊)しゃぐま』なんてのが。
このズボンタイプの兵士は高島秋帆が始まりと言われます。
幕府はきっちり演習をこなした秋帆に『洋装なんて以っての外!』と難癖付けましたが、実は秋帆の用いたのは紺股引き(祭りパッチ)に筒袖、コレ空手や剣道の、いわゆる『胴着』
足元も脚半に足袋鞋といったもの。
これらは『職人』らの格好で、それまで『戦は武士の特権』と考えてたお偉いさんには『とんでもない』事だったんです。
『官』が形骸化で『実』を考えられなくなり、ダメになっていったいい例ですね。
そんな事してたので、その後、トコトンヤレ節に乗り『農兵論』の大村益次郎が率いた平民軍隊に江戸幕府はトドメを刺されます。
この頃、南北戦争で儲けたグラバーらが払い下げの武器と共に、ズボンを持ち込み、戦の後もそれが軍、警察に下ろされ、後に『学生服』となっていきましたという話♪