今日もみっちり13~22時で柳生十兵衛の稽古でした!
さて、今回は柳生十兵衛の弟達!
次男、柳生友矩
左門または刑部とも言われ、十兵衛の異母弟にあたります。
生母は宗矩の側室、つまり友矩は庶子。
ゴツいイメージの柳生家に似合わず(失礼!)、美男子で有名で、家光に勘気を被った兄の十兵衛に代わって、小姓として家光に仕えた。
家光は美形の友矩を大いに寵愛(ご想像にお任せします)。
それが元で、多くの人々から妬まれたと言われるが、家光は構わず友矩を小姓~徒頭~山城国相楽郡2000石と、どんどん出世させた。
しかし、その後病にかかり、静養するが、寛永16年(1639年)に27歳で死去した言われる。
異説に『寛政重修諸家譜』には38歳とある。
なお、病にはっきりとした記述はなく、小説などでは『家光との房事が激し過ぎた為』とも言われ、家光は友矩の死を聞いた時、激怒したという…。
三男、柳生宗冬
友矩と同歳の異母弟で十兵衛の同母弟。
剣豪である。
十兵衛リタイアの後は宗冬が一時期、剣術指南役を務め、後に江戸幕府の4代将軍徳川家綱の剣術の兵法師範にして、大和国柳生藩第3代藩主となります。
名実共に、十兵衛の『後を継いだ』訳です。
通称は又十郎。母は松下之綱の娘、おりん(異説あり)。
正室は京極高通の娘。子に柳生宗春を筆頭に3人。娘も三人いて、かなり子煩悩だったようです。
娘はそれぞれ小出尹重、朽木則綱、曽我近祐に嫁いでいます。
後に柳陰と号し、実質、柳生家を継いだ人物。
柳生義仙
三人の兄とはまた異なる母の末弟。
幼名六丸、寛永12年生まれで宗矩66歳の時、お藤という女性との間にできた子。家光が宗矩の願い
『柳生に寺を建てて下さい。そして末弟六丸を住職に…』
を聞いて(宗矩死後)寺を建てさせた寺の初代座主となる。
六丸は出家し、列堂義仙と号した。
墓は芳徳寺にあり、墓碑に『当山第1世列堂大和尚』と刻まれている。
若い時期にはありがちな事だが、仏門修行に精進せず、ぐれた時代があったらしいが後に一度、名刹大徳寺の座主(238代!)になった経験が!
奔放な性格で、冷静タイプの宗冬と不仲説あり。
講談などでは『裏柳生』を率いる柳生の闇部の首領。
『子連れ狼』の柳生烈堂はこの列堂義仙がモデル。
このせいか、どのお話でもかなり汚れ役か仇役!
十兵衛のアンチテーゼ『もう一人の十兵衛』とも言える存在。
他に十兵衛には妹がいたとある。
さて、今回は柳生十兵衛の弟達!
次男、柳生友矩
左門または刑部とも言われ、十兵衛の異母弟にあたります。
生母は宗矩の側室、つまり友矩は庶子。
ゴツいイメージの柳生家に似合わず(失礼!)、美男子で有名で、家光に勘気を被った兄の十兵衛に代わって、小姓として家光に仕えた。
家光は美形の友矩を大いに寵愛(ご想像にお任せします)。
それが元で、多くの人々から妬まれたと言われるが、家光は構わず友矩を小姓~徒頭~山城国相楽郡2000石と、どんどん出世させた。
しかし、その後病にかかり、静養するが、寛永16年(1639年)に27歳で死去した言われる。
異説に『寛政重修諸家譜』には38歳とある。
なお、病にはっきりとした記述はなく、小説などでは『家光との房事が激し過ぎた為』とも言われ、家光は友矩の死を聞いた時、激怒したという…。
三男、柳生宗冬
友矩と同歳の異母弟で十兵衛の同母弟。
剣豪である。
十兵衛リタイアの後は宗冬が一時期、剣術指南役を務め、後に江戸幕府の4代将軍徳川家綱の剣術の兵法師範にして、大和国柳生藩第3代藩主となります。
名実共に、十兵衛の『後を継いだ』訳です。
通称は又十郎。母は松下之綱の娘、おりん(異説あり)。
正室は京極高通の娘。子に柳生宗春を筆頭に3人。娘も三人いて、かなり子煩悩だったようです。
娘はそれぞれ小出尹重、朽木則綱、曽我近祐に嫁いでいます。
後に柳陰と号し、実質、柳生家を継いだ人物。
柳生義仙
三人の兄とはまた異なる母の末弟。
幼名六丸、寛永12年生まれで宗矩66歳の時、お藤という女性との間にできた子。家光が宗矩の願い
『柳生に寺を建てて下さい。そして末弟六丸を住職に…』
を聞いて(宗矩死後)寺を建てさせた寺の初代座主となる。
六丸は出家し、列堂義仙と号した。
墓は芳徳寺にあり、墓碑に『当山第1世列堂大和尚』と刻まれている。
若い時期にはありがちな事だが、仏門修行に精進せず、ぐれた時代があったらしいが後に一度、名刹大徳寺の座主(238代!)になった経験が!
奔放な性格で、冷静タイプの宗冬と不仲説あり。
講談などでは『裏柳生』を率いる柳生の闇部の首領。
『子連れ狼』の柳生烈堂はこの列堂義仙がモデル。
このせいか、どのお話でもかなり汚れ役か仇役!
十兵衛のアンチテーゼ『もう一人の十兵衛』とも言える存在。
他に十兵衛には妹がいたとある。
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