第三百八十九弾「 方舟の継承者 第二部 小人たちの戦争その2」
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の続きです
# 方舟の継承者
## 第二部 小人たちの戦争
### 第十四章 接触
ロバート・デニスは、その夜、独断で歩くことにした。
大使館を出る際、運転手が公用車を正面に回していた。
ロバートはそれを手で制して、
「今夜は歩く」とだけ言った。
警護担当のケビンが眉を上げたが、
ロバートは気にしなかった。
ホテルまで二十分ほどの距離だ。
冬の東京の夜は冷えるが、耐えられない寒さではない。
コートの前を合わせ、ロバートは大使館の正門を出た。
なぜ歩くのか。
自分でも完全には説明できなかった。
ただ、今夜は歩くべきだという確信があった。
三十年分の直感が、そう言っていた。
何かが動いている。
空気が違う。それを言語化できないが、
長年この仕事をしていると、
そういう感覚が研ぎ澄まされる。
証拠はない。
論理的な根拠もない。
ただ、今夜この道を歩かなければ、何かを取り逃がす。
それだけだった。
ロバートは街灯の光の中を歩いた。
住宅街の静かな夜道だ。
遠くでタクシーが通り過ぎる音がする。
コンビニの光が角に見える。
東京の夜は、ワシントンとも、カイロとも、
テヘランとも違う独特の静けさがある。
ロバートはこの街が、悪くないと思っていた。
歩き始めて五分が経った頃だった。
「副部長」
声が聞こえた。
ロバートは足を止めた。
振り返ると、街灯の光の届かない位置に、
誰かが立っていた。
背丈からすると若い。
コートのポケットに手を入れて、
特に身構えた様子もなく、ただそこに立っている。
ロバートは相手を観察した。
十代後半か、二十代前半か。
顔は見えにくいが、脅威の気配はない。
少なくとも表面的には。
しかし「副部長」と呼んだということは、
自分の身元を知っている。
それだけで十分に異常だった。
「一人じゃないんだろ?」
ロバートは英語で言った。
「私に何が訊きたい」
相手は少し間を置いた。
「訊くことは無い」
流暢な英語だった。
翻訳された言葉ではなく、
生きた言語として使っている感触がある。
「今追っている案件から、手を引くだけでいい」
ロバートは内心で何かが弾けるのを感じた。
表情には出さなかった。
三十年の訓練が、表情筋を制御した。
しかし胸の内側で、確かに何かが鳴った。
手を引け。
この案件を。
ARKBIRDを知っている者が、夜道で待ち伏せている。
「代償は?」
ロバートは落ち着いた声で言った。
「君の知りたい秘密を教える」
相手は言った。
「信じるか信じないかは、君次第だが」
ロバートは相手の顔を改めて見ようとした。
街灯の角度が悪い。
顔の輪郭は見えるが、細部が闇に溶けている。
それが意図的なものかどうかも判断できなかった。
「その証拠は?」
ロバートの声が、わずかに変わった。
それは隠せなかった。
三十年間、この問いを誰かにぶつける日が来るとは
思っていなかった。
思っていなかったが、いつもどこかで待ち続けていた。
相手が動いた。
コートのポケットから何かを取り出し、
ロバートに向かって差し出した。
ロバートは手のひらを広げて受け取った。
黒い。
それが最初の認識だった。
一センチにも満たない断片で、羽根の形をしている。
羽根というより、羽根の一部だ。
表面に細かい構造があり、
見る角度によって光の反射が変わる。
ロバートの指先が、震えた。
これは——。
素材の感触が、ネバダの地下施設の写真の中で見た
分析レポートと、頭の中で重なった。
1936年のタニスで採取されたサンプル。
その分析レポートと統計的に一致すると結論づけられた、
未確認飛行物体の落とし物の素材。
そして今、自分の手のひらにあるこの断片の質感が、
三十年前に読んだその報告書の記述と、
寸分違わず重なっている。
「これは……」
言葉が続かなかった。
ロバートは人差し指の腹で、その断片をそっと撫でた。
金属ではない。
かといって有機物でもない。
そのどちらでもあるような、そのどちらでもないような。
常温なのに体温より少し高く感じる。
表面の微細な構造が、
指先の神経に奇妙な感触を送ってくる。
「本体を見せる用意もある」
相手の声が、静かに続いた。
「ただし、見せた後に記憶を消させてもらうが」
ロバートは顔を上げた。
消す、と言った。記憶を。
普通ならそこで警戒が跳ね上がるはずだった。
しかしロバートの胸に浮かんだのは、警戒ではなかった。
「それでいい」
自分でも驚いた。即答だった。
三十年間追い続けてきたものを、ついに見られる。
たとえその後に記憶が消されるとしても
——見ることができる。
その事実だけで、十分だった。
「後は、君の行動を見てから判断する」
相手はそう言った。
何かを確認するような、品定めするような間があって、
それから続けた。
「そうそう。君の監視チームは全員、
眠らせて記憶を消させてもらったから。
後で回収しておいて下さい」
ロバートは一瞬、言葉を失った。
監視チームが。
全員。
「——」
何かを言おうとしたが、言葉より先に視界が変わった。
相手がいた場所に、霧が立ちこめた。
霧というより、空気そのものが淡く白んだような。
そしてその白みが薄れると、そこには誰もいなかった。
街灯の光が照らす夜道。
コートの裾を揺らす冬の風。自分の白い息。
それだけが残った。
ロバートは手のひらの断片を見た。
消えていない。
確かにある。
夜の光の中で、その表面がわずかに輝いている。
幻覚ではなかった。
ロバートは深く息を吸った。
何年も前から、どこかで覚悟していたはずだった。
しかし実際にその瞬間が来ると、
どんな覚悟も追いつかないことがわかった。
膝が震えていた。
ベテランのCIA副部長が、冬の東京の夜道で、
一人、膝を震わせていた。
監視チームの回収に向かわなければならない。
しかしロバートはしばらく、その場から動けなかった。
手のひらの上の小さな断片を、ただ見つめていた。
---
上空で、ガルーダの背に乗った一郎は
地上を見下ろしていた。
ロバートの姿が豆粒ほどの大きさになっている。
その場に立ち尽くしたまま、動かない。
手のひらに視線を落として、何かを確かめるように。
「どうだったと思う、マリア」
「わかりません」
マリアの声が耳に届いた。
「ただ、動揺は本物でした。
観測者の計測では、会話中の心拍数が
通常の一・七倍まで上昇していました。
経験豊富な諜報員がそこまで反応するのは、
予想外の情報に接触したか、強い感情が生じたか、
そのどちらかです」
「俺には両方に見えた」
一郎は視線を前方に戻した。
東京の夜景が広がっている。
光の海だ。
この光のひとつひとつに人間がいて、
それぞれの夜を生きている。
接触は思ったよりうまくいった。
いや、うまくいったのかどうか、まだわからない。
ロバートが手を引くかどうか、
約束したわけでも、確約を得たわけでもない。
一郎が渡したのはガルーダの羽根の断片と、
「秘密を教える」という言葉だけだ。
「ロバートの通信状況は?」
「現在、大使館に緊急連絡を入れています。
監視チームの安否確認を最優先で要請しているようです。
具体的な内容は——」
マリアが少し間を置いた。
「今のところ、監視チームの回収指示と、
緊急事態の報告にとどまっています。
一郎様との接触については、まだ上に報告していません」
「報告しないのか」
「少なくとも今この瞬間は」
一郎はそれを咀嚼した。
ロバートは即座に報告しなかった。
三十年間追い続けてきた何かと接触したという事実を、
今すぐ組織に共有しなかった。それはなぜか。
信じてもらえないと思ったからか。
確認を取りたいからか。
それとも、この秘密をもう少しだけ、
自分だけのものにしておきたいからか。
「ロバートがただの情熱的な人物ならいいんだけど……」
ガルーダの背の上で、一郎はそう呟いた。
風がその言葉をすぐに散らした。
マリアに聞こえていたかどうかは、わからなかった。
夜風の中で、一郎は考えていた。
ロバート・デニスという人間を、今夜初めて生で見た。
資料の中の顔写真でも、観測者が拾ってきた音声でもなく、
夜道に立つ実物を。
五十四歳の男の、震える手のひらを見た。
嫌いではない、という最初の印象は変わらなかった。
しかしだからこそ、扱いが難しい。
純粋な悪意を持つ相手なら、対処は単純だ。
しかし三十年間の夢を追い続けてきた、
誠実な執念を持つ人間は
——その誠実さごと、
こちらの手に余る何かになりかねない。
ノアとモーセの話が、頭の隅で静かに響いていた。
モーセも誠実だった。
ノアはその誠実さを信じた。
しかしモーセが死んだ後のことを、考えていなかった。
ロバートが誠実であることは、安全を意味しない。
むしろ——。
「マリア」
「はい」
「ロバートの報告書の書き方、これまでの案件処理の傾向、
全部もう一度洗い直してくれ。
観測者が集めたデータを全部使っていい。
ロバートという人間が、情報を得た後にどう動くのか、
パターンを出してほしい」
「了解しました」
「それと」
一郎は少し間を置いた。
「工藤家の監視状況も確認してくれ」
「工藤家についての変化は今のところありません。
監視要員が眠っていますので、
当面は接触リスクが下がっています」
眠っている監視要員たちが、
どれほど経って回収されるか。
回収された後、彼らの記憶がないことを
ロバートがどう処理するか。
それがロバートの次の手を決める。
ガルーダは高度を上げた。
東京の光が小さくなる。
雲が近づく。
その先に、七万三千年の歴史を持つ方舟が、
誰にも見えない空で待っていた。
一郎は手のひらを見た。
ロバートに渡したガルーダの羽根の断片と同じものが、
もう一枚、コートのポケットに入っていた。
渡す前に、万が一のために取っておいたものだ。
その断片を指先で触れながら、一郎は考え続けていた。
今夜の接触は、始まりに過ぎない。
ロバートが手を引くかどうか、まだわからない。
引かなかったとき、どうするか。
引いたとして、本当に引いているかどうか、
どう確認するか。
約束を守る人間かどうか、何を見れば判断できるか。
答えはまだ、どこにもなかった。
方舟が近づいてくる気配を、一郎は感じた。
次元バリアの境界線を越える、あの静電気に似た感触。
一郎は目を閉じた。
東京の夜が、遠くなっていく。
---
ロバートはその夜、ホテルに戻ってから、
報告書を書かなかった。
机の前に座り、手のひらの上の断片を眺めながら、
ただ時間が過ぎるのを感じていた。
監視チームは全員、
近隣の路地や車の中で眠った状態で発見された。
外傷はなく、バイタルは正常。
ただし、記憶がなかった。
最後に覚えているのは、
それぞれが持ち場についていた瞬間までで、
その後の数時間が丸ごと消えていた。
医療的な異常は何もない。
ただ、記憶がない。
ロバートはそれをケビンに報告させ、
事後処理を一任した。
そして一人になってから、断片を見ていた。
あの少年は言った。
本体を見せる用意がある、と。
記憶は消されるが、見られる、と。
三十年間夢見てきたことが、
今夜、声で告げられた。
ロバートは指先で断片を撫でた。
信じるか信じないかは、君次第だ
——という言葉も、頭の中で繰り返した。
三十年間、
誰にも信じてもらえなかった。
フランクが教えてくれたあの夜から、
ずっと一人で信じ続けてきた。
今夜初めて、向こう側から、声がかかった。
ロバートは断片を、
大切にコートの内ポケットにしまった。
報告書は、明日書く。
今夜は——。
窓の外の東京の夜景を見ながら、
ロバート・デニスは、生まれて初めて、
自分が正しかったと確信した。
---
*(第二部・第十四章 了 ――続く)*