第三百八十九弾「 方舟の継承者 第二部 小人たちの戦争その2」
の続きです
# 方舟の継承者
## 第二部 小人たちの戦争
### 第十二章 ARKBIRD
ロバート・デニスが初めてその話を聞いたのは、
CIA本部ラングレーに入局して三ヶ月が経った、
秋の夜のことだった。
教えてくれたのは先輩局員のフランク・コリンズ
——当時すでに六十代後半で、
引退まで数年と言われていた古株だった。
二人でカフェテリアに残り、
他に人がいなくなったことを確かめてから、
フランクはコーヒーカップを両手で包むようにして、
声を落とした。
「お前、歴史上の案件で何が一番面白いと思う?」
「ベイ・オブ・ピッグス侵攻か
マンゴスティン作戦あたりですかね」
ロバートは答えた。
彼も当時はまだ教科書的な優等生だった。
フランクは鼻で笑った。
「そういうのは表の教科書に載ってる話だ。
俺が言ってるのは、本当の意味で面白い案件だ」
「たとえば?」
「1936年」
フランクは言った。
「ナチスドイツと米陸軍情報部が、
エジプトで争奪戦を演じた」
ロバートは黙って続きを待った。
「お前、The Lost Arkって知ってるか」
「映画なら」
「映画の元ネタだよ。
ハリウッドが面白おかしく作った話だが、
元になった実際の案件がある。
1936年にエジプトのタニスで、
ドイツの考古学チームが発掘作業を行っていた。
その目的は表向き歴史的遺物の調査だったが、
実際はヒトラーが個人的に命じた
別の何かを探すための作業だった。
CIA工作員だった俺の父達は
それをいち早く察知して先に手を打った。
現地エージェントを使って発掘物を横取りし、
本国に持ち帰った。
ドイツが何を探していたかわかるか」
「聖櫃、ですか」
フランクは頷いた。
「アーク・オブ・ザ・コヴェナント。
旧約聖書に記された、神との契約の箱だ。
そしてうちの連中はそれを、実際に見つけた」
ロバートはその瞬間、笑いそうになったが、
フランクの目が真剣なのを見て飲み込んだ。
「その箱はネバダ州の地下施設に保管された。
アメリカ政府の最高機密として。ただ」
フランクはコーヒーを一口飲んだ。
「後から問題が出た。
専門家を入れて詳しく調べた結果、
それが偽物だったと判明した。
本物に非常によく似た、しかし別の何かだった。
本物はどこにもない。今も」
「その案件の記録は?」
「三重ロックの金庫の中だ。
お前が今持ってる認証レベルじゃ開けられない」
ロバートは二十六歳だった。
その夜から、彼は変わった。
---
三十年近い時間をかけて、ロバートは認証レベルを上げた。
キャリアを積み、語学を磨き、
中東とアジアの地政学に精通し、
局内の評価を着実に積み上げた。
その動機の核に、あの夜フランクから聞いた話があった。
一度も人に話さなかった。
話せばキャリアに傷がつくと本能的にわかっていたから。
しかし忘れたことは一度もなかった。
五年前、
ようやく該当する記録にアクセスできる認証を得た。
記録を読んだ。
フランクの話は正確だった。
1936年、タニスの発掘現場。
ドイツの考古学チームを出し抜いた
米陸軍情報部のエージェントたち。
ネバダの地下施設に運び込まれた黄金の箱。
そして——後に行われた詳細な科学的分析の結果報告。
その報告書の結論部分を、ロバートは今も暗記している。
*当該遺物は、聖書の記述と外観的に高い一致を示す。
素材はアカシア材に金箔を施したものであり、
推定年代は紀元前十世紀から十一世紀に相当する。
ただし内部構造の精密分析において、
既知のいかなる古代技術とも一致しない
加工痕が複数確認された。
これは当該遺物が、オリジナルの精巧な
複製である可能性を示唆する。
オリジナルの所在は不明。
本案件は未解決のまま凍結する。*
複製。
オリジナルは別にある。
そのオリジナルが、
どこかに存在しているという可能性を、
ロバートは三十年間抱き続けてきた。
そして半年前、東京支局から上がってき
一枚の不鮮明な画像が、彼の手元に届いた。
日本のSNSから拾い上げられた投稿に添付されていた写真。
住宅街の夜空に写り込んだ、巨大な翼の影。
AIによる画像分析の結果が示したのは
——有機的構造を持ちながら、
金属または複合素材製の可能性がある、
既知のいかなる生物にも該当しない飛翔体、
という結論だった。
さらに翌日、その翼の落とし物が発見された。
地元の住民が庭先で見つけた、黒い羽根のような欠片。
一センチにも満たない断片だったが、
近隣の大学の材料工学の教授がSNSに分析結果を投稿した。
それをCIAの分析部門が拾い上げ、
独自に詳細分析を行った結果が、
ロバートの机に上がってきた。
分析結果は、一行の結論で終わっていた。
*当該素材の加工技術は、
1936年のタニス案件で採取されたサンプルの加工痕と、
統計的に有意な一致を示す。*
ロバートはその報告書を読んだとき、
三十年分の直感が一点に収束する感覚を覚えた。
これだ。
これが、あの話の続きだ。
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駐日米国大使館の一室は、窓がなかった。
防音処理が施された壁。
フロア全体を電磁シールドで覆う設備。
外部ネットワークとは物理的に遮断された、
自己完結した作戦室。
ロバートは本国から持ってきた書類鞄をテーブルに置き、
ケビン・ライトの向かいに座った。
ケビンは三十九歳で、東京に来て六年になる局員だった。
日本語が堪能で、現地のネットワークを
丁寧に構築してきた、実務能力の高い男だ。
しかし今回の案件については、
その意義をどこまで理解しているか、
ロバートには測りかねていた。
「工藤邸の調査報告は?」
ケビンは迷わず手元の紙束を差し出した。
十数枚。
ロバートは受け取りながら、
その仕草の淀みのなさを確認した。
きちんと準備している。
「現在も二十四時間体制で監視し、
情報収集を継続しています」
ロバートは報告書に目を走らせた。
工藤優樹、五十二歳、外科医。
妻の亜佑美、四十八歳、専業主婦。
娘の遥、十八歳、受験生。
そして空白——前田一郎、十七歳。失踪。
戸籍上は工藤家の親戚として登録されており、
七歳のときに両親を失って引き取られた経緯がある。
「ターゲット——前田一郎の失踪当夜、
工藤家の人間は何をしていた?」
「医師の工藤優樹と妻の亜佑美は庭に出ていました。
庭に出た理由は不明。
娘の遥は自室にいたと推定されます。
翌朝、警察への届け出はなし。
行方不明として捜索願を出した形跡もなし。
一郎が自発的に家を出たと認識している可能性が高い」
「工藤家は知っているかもしれない」
「その可能性はあります。
ただ、接触して直接聞き出すことは——」
「しない」
ロバートは即座に言った。
「接触は最後の手段だ。今は監視と情報収集に徹する。
工藤家の人間が外で誰かと接触したとき、その相手も追え」
「了解しています」
「誰にもバレていないだろうね」
ロバートは念を押した。
それは習慣的な確認であると同時に、
この案件においては特別な意味を持つ問いだった。
ケビンは表情を変えなかった。
「別働隊に監視チームを監視させていますが、
今のところ不審な人物は見つかっていません」
自信のある答えだった。
ロバートは頷いた。
しかしその瞬間、ロバートの背中で何かが動いた。
感覚ではない。
錯覚でもない。実際に何かがそこにあった。
ジャケットの背中の縫い目の裏側、
肩甲骨のやや下の位置に、
体長一・五センチの人型ロボットが張り付いて、
この部屋の音のすべてを拾い、
リアルタイムで七万三千年前から
飛び続ける方舟に送信していた。
ケビンの背中にも、同じものがいた。
二人はそれを知らない。
知る術がない。
窓のない部屋の電磁シールドも、
別働隊による監視者への監視も、
観測者たちの前では意味をなさなかった。
観測者は金属ではなく有機的複合素材で
作られているため電磁センサーに反応しない。
体温は周囲の温度に合わせて
自動調節されるため赤外線カメラにも映らない。
重さは〇・〇三グラム。
人間の皮膚感覚では感知できない。
ロバートとケビンの会話は、言葉が発せられた瞬間から、
すでに方舟の情報処理区画に記録されていた。
「どんな些細な情報でもいいから、
全て報告するよう厳命しておけ」
ロバートは言った。
「一郎が庭を出た夜に誰かが空を見上げたなら、
その人間が何を見たのかも知りたい。
近隣住民の中に、あの夜のことを話している者がいれば、
その内容も全部だ」
「現地の協力者に徹底させます」
「それからSNSの監視も継続してくれ。
あの投稿をしたユーザーの特定は?」
「済んでいます。
東京都在住の三十代の男性で、
現在も同住所に居住確認済みです。
本人は投稿後に特に動きはなく、
閲覧数が伸びなかったことに
落胆したような投稿をしています」
「接触は?」
「まだです。タイミングを見計らっています」
ロバートは報告書の最後のページを読み終えて、
紙束をテーブルに置いた。
三十年。
三十年かけてここまで来た。
入局したての若者にフランクが話してくれた夜から、
認証レベルを上げるために費やした歳月から、
アジア担当副部長の椅子まで昇り詰めた時間から、
今日という日まで。
その全部が、今この作戦室に集約されている。
「ケビン、一つ確認したい」
ロバートは言った。
「お前はこの案件を、どう見ている」
ケビンは少し間を置いた。
「正直に言いますか?」
「そのために聞いている」
「未確認物体の目撃情報と素材分析の一致は、
確かに説明がつかない。
ただ、それが聖書の聖櫃と結びつくという話は
——本国のアナリストの大半が懐疑的です。私も」
ケビンは率直に言った。
「素材の分析一致は、異なる起源を持つ素材が
偶然に類似した加工痕を持ったという可能性も
排除できない。
ラボの分析ミスかもしれない。
前田一郎が特異な能力を持つという推測も、
根拠が薄い」
「だとしたら?」
「一人の高校生の失踪案件で、
副部長がわざわざ来日する理由がありません」
ロバートは少し笑った。
若い頃の自分もそう言っただろう、と思った。
証拠を見てから動く。
証明できないものは追わない。
それがCIAの基本だ。
しかし三十年で学んだことがある。
証拠が揃ってから動く者は、常に後手に回る。
「お前の懐疑論は正しい」
ロバートは言った。
「合理的に考えれば、これは分析ミスかもしれない。
一件の失踪案件かもしれない。ただ——」
彼はテーブルの上の紙束を指先で軽く叩いた。
「俺が三十年この仕事をしてきて学んだのは、
説明がつかないものを説明がつかないまま
放置した案件が、後に取り返しのつかないことになる
ということだ。
説明がつかないものには、説明がつかない理由がある」
ケビンは答えなかった。否定もしなかった。
「作戦を続けてくれ」
ロバートは立ち上がった。
「些細なことでも全部上げろ。俺はここにいる。
何かあればいつでも叩き起こしていい」
「了解しました」
ロバートは作戦室を出た。
廊下を歩きながら、コートの衿を立てた。
この大使館の建物の中を、今この瞬間、
どれほどの情報が流れているか。
CIA局員が動き、外交官が動き、
現地スタッフが動いている。
そのすべての音を、壁の隙間に張り付いた
体長一・五センチの何かが拾い続けていることを、
ロバートは知らない。
---
方舟の司令室で、
前田一郎はその日のリアルタイム記録を聞いていた。
ロバート・デニスとケビン・ライトの会話が、
ブレインによって翻訳されて流れる。
一郎はそれを、食後のお茶を片手に、
背もたれに深く体を預けて聞いていた。
「ブレイン」
聞き終えて、一郎は言った。
「このロバート・デニスという人物の経歴、
詳しく出してくれ」
スクリーンに人物ファイルが展開された。
生年月日、出身、学歴、入局以来のキャリア。
表向きの情報だけでも、その輪郭は鮮明だった。
「1936年のタニス案件を三十年間追いかけてきた」
一郎は言った。
「それだけのために、副部長まで出世した」
「そのように推定されます」
一郎は少し黙った。
嫌いではない、と思った。
自分の信念のために三十年間動き続けた人間というのは、
たとえ自分の障害になったとしても、
単純に嫌いにはなれない。
あの会話の中のロバート・デニスには、
本物の執念があった。
証明できないものを追い続けることの孤独と、
それでも追い続けることの意志が、
ケビン・ライトとのやり取りの行間に透けて見えた。
「タニスで回収されたのは」
一郎は確認した。
「アークの複製だったんだな」
「はい。ノア様がモーセに作らせたものの、
さらに後代に作られた模倣品です。
複製の複製というべきもので、
本来のアークとは素材も構造も大きく異なります。
ただ外観は精巧に模されており、
当時の技術では真贋の判別が困難でした」
「1936年の分析サンプルと、
ガルーダの落とし物が素材的に一致した」
「分析担当者が気づいた点は鋭いと言えます。
どちらもノア様が開発した素材系統に属しているため、
化学的な特徴に共通点があります。
ただし直接的な証拠にはなりません。
ロバート・デニスがその繋がりに気づいたとしても、
それが方舟の存在を示すという論理的な跳躍には、
いくつかの欠落があります」
「本国のアナリストが懐疑的な理由もそこだな」
「はい。ケビン・ライトの分析は冷静で正確です。
現状ではロバート・デニスの直感と執念だけが、
この調査を支えています」
一郎はお茶を一口飲んだ。
「その直感と執念が、一番やっかいなんだよな」
「そうです」
マリアが隣で言った。
「証拠のない確信を持つ人間は、
証拠が揃った後より前の段階の方が、
行動が読みにくい」
一郎はマリアを見た。
「どういうこと?」
「証拠がある状態で動く人間は、証拠に従って動きます。
だから次の手が予測できる。
しかし確信だけで動く人間は、
証拠の有無に関わらず自分の信念に従って動く。
時に論理を超えた行動をとることがあります」
「俺みたいなもんか」
「そうかもしれません」
マリアは静かに言った。
「だからこそ危険だとも言えます」
一郎は少し笑って、スクリーンのロバートの顔写真を見た。
五十四歳。グレーの髪、深い目の皺、口元の固さ。
三十年間、誰にも話さずに
一つのことを追い続けてきた顔だ。
「工藤家の監視が続いている以上」
一郎は言った。
「いつかは何かしら動かないといけない。
でも今はまだ見ておく。
ロバート・デニスという人間を、もう少し知りたい」
「了解しました」
「どんな些細なことでも全部上げると言った。
それを逆手に取る方法がそのうち見えてくるかもしれない」
部屋に沈黙が落ちた。
スクリーンには工藤邸の映像が映っていた。
冬の夜の、当たり前の光が窓から漏れている。
亜佑美が夕食の片付けをしている影が動いている。
遥の部屋の窓は明かりがついていた。
受験勉強だろう。
観測者たちは今この瞬間も、
大使館の廊下を歩くロバートの背中に張り付いている。
彼が何を考え、どこに向かい、誰と話し、
何を命じるかを、すべて記録し続けている。
ロバートは知らない。
三十年追い続けてきた謎の核心に、
自分がこれほど近い場所にいることを。
そしてその謎の側が、
とっくに自分を見つめていることを。
前田一郎は十七歳だった。
五十四歳のロバート・デニスを、
方舟の司令室から静かに見ていた。
---
*(第二部・第十二章 了 ――続く)*