の続きです
# 方舟の継承者
## 第二部 小人たちの戦争
### 第十一章 失われた聖櫃
それは、思っていたよりずっと小さかった。
前田一郎は、
その箱の前に立って、しばらく動けなかった。
博物館の展示品のように、
方舟の一区画に設けられた部屋の中央に、
それは置かれていた。
台座はなかった。
床に直接、ただそこにある。
照明は部屋の四隅から均等に当てられていて、
影ができないように計算されているようだった。
しかしどれほど均等に光を当てても、
その箱の周囲にはどこか、
光が届かない領域があるように感じられた。
闇ではない。
光でもない。
ただ、普通の空間とは質の違う何かが、
その箱を取り囲んでいた。
アカシアの木でできている。
表面は金で覆われていた。
長さは一郎の目測で一メートル強、
高さと幅はその半分ほど。
蓋の上には二体の像が向き合うように立っていた。
翼を広げた人型の像
——ケルビムと呼ばれる天使の像だと、
睡眠学習で得た知識が自動的に補足した。
向かい合う二体の翼の先が触れ合い、
その間に空間を作っている。
黄金の表面は、数千年の時間をまとっていた。
くすんでいる。
傷もある。
蓋の端に、小さな欠けがある。
それが、この箱が実際に存在したものであること、
どこかの神話の中の話ではなく、
確かに誰かの手で作られ、誰かの手で運ばれ、
戦場をくぐり、砂漠を越え、神殿に安置され、
そして消えたものであることを、生々しく証明していた。
「本物だ」
一郎は声に出してから
それが当たり前のことだと気づいたが、
当たり前だとわかっていても
言わずにはいられなかった。
「はい」
マリアが隣に立って答えた。
「本物です」
---
この部屋に来たのは、
ブレインからの案内があったためだった。
CIAの動向を把握し、工藤家周辺の監視状況を確認した後、
一郎は方舟の各区画を把握する巡回を日課にしていた。
七・三キロメートルの巨体の中には、
睡眠学習で頭に入っているとはいえ、
実際に目で見ていない場所がまだ無数にある。
知識と実感は別物だ。
ブレインに案内を頼むと、
今日は特別に見ておくべき場所があると言った。
その「特別な場所」が、この部屋だった。
「ブレインが言っていた
『ノア様が閲覧を制限した七度の対処記録』
の一つと関係があります」
マリアが静かに言った。
「この部屋を見ていただいてから、
その記録の一部をご覧いただこうと
ブレインが判断しました」
「なぜ今日?」
「一郎様がノアという人物をどう見ているかが、
今後の判断に影響すると思われたからです」
一郎はその答えの意味を少し考えてから、
マリアに説明を促した。
マリアは箱の前に静かに立ち、
その黄金の表面を見ながら話し始めた。
「この箱は、ソロモンの秘宝、あるいは聖櫃
——失われたアーク、と呼ばれてきたものです」
「知ってる」
一郎は言った。
「旧約聖書に出てくる。
十戒が刻まれた石板を入れた箱だろう」
「教典の記述としては正しいです。
ただ、本来の用途は別にあります」
マリアは一郎を見た。
「これは元々、この方舟
——ノアの方舟の動力源として開発されたものです」
一郎は一瞬、言葉を失った。
「動力源?」
「はい。方舟の主機関として設計された、
エネルギー変換装置です。
この箱の内部には、現代の科学では
再現不可能な構造が組み込まれており、
真空エネルギーを直接電力に変換する機能を
持っていました。
稼働時の出力は、現在の方舟が搭載している
主エネルギープラント三基を合算した値の、
およそ三十倍に相当します」
三十倍。
一郎は今の方舟のエネルギー生産量を頭の中で計算した。
その数字に三十を掛けた結果が出てきたとき、
それが何を意味するのかを理解するのに、
しばらくかかった。
それだけのエネルギーを持つ箱が、
今、自分の目の前に、床に直接置かれている。
動かない状態で。
「モーセは」
マリアは続けた。
「ノア様の存在を、直接ではありませんが
間接的に知っていました。
精確に言えば、方舟の痕跡を知っていた。
その知識を元に、ノア様にある依頼をしました」
「依頼?」
「エジプトに囚われたイスラエルの民を
解放するための力を貸してほしいと。
ノア様はモーセという人物の志と誠実さを見て、
この動力源の——複製を作ることを許可しました」
「複製」
「不完全な複製です」
マリアは箱を見た。
「ノア様は設計図を一部だけ開示し、
細工師のベツァルエルに製作させました。
意図的に出力を制限し、
完全な再現ができないよう設計を省いた形で。
それでも、当時の人類にとっては想像を絶する力でした」
一郎は黄金の表面の傷を見た。
蓋の端の欠けを見た。
数千年分の時間の重さが、その傷の中にある。
「モーセの奇跡というのは」
「そのほぼすべてが、
複製のアークのエネルギーによるものです。
海が割れたのも、水が岩から湧いたのも、
天からマナが降ったのも
——アークが大気中の水分や微粒子をエネルギーで
操作した結果です。
当時の人々の目には奇跡と映ったでしょう。
しかしノア様の技術から見れば、
出力を絞った動力装置の、
初歩的な応用に過ぎませんでした」
「それを」
一郎は言った。
「ノアは見ていたのか」
「見ていました。
当初は、モーセという人物ならば
アークを正しく使うと信じていました。
実際、モーセ自身は節度を持ってアークを扱いました。
しかし問題はモーセの死後でした」
マリアは少し間を置いた。
「モーセの後継者たちは、
アークを戦争の道具として使いました。
エリコの城壁を崩したのは
アークの超音波出力によるものです。
ペリシテ人との戦いで敵に鼠疫をもたらしたのは
アークの電磁波照射によるものです。
アークに触れた者が即死したという記述は、
絶縁処理を知らない人間が動力装置に
素手で触れた際の感電死です。
ノア様はその経緯を、
距離を置いて観察し続けていました」
一郎は箱を見た。
黄金の天使像が向かい合っている。
翼の先が触れ合っている。
その下に、何千年もの間
「神の力」として崇められてきた
エネルギー装置が眠っている。
「ソロモン王の時代に」
一郎は言った。
「エルサレム神殿に安置されてからは、
使われなくなったと聞いた」
「ソロモン王はアークを戦争に使うことをしませんでした。
神殿の至聖所に収め、年に一度、
大祭司だけが近づくことを許した。
ノア様はその扱いを見て、しばらくは静観していました。
しかしソロモン王の死後、
王国が分裂し、周辺諸国との戦いが激化する中で、
アークが再び戦争利用される可能性が高まった」
「それで回収した」
「紀元前586年、
新バビロニア王国がエルサレムを破壊する直前に、
ノア様は小人型ユニットを使って
アークを神殿から持ち出しました。
バビロニア軍がエルサレム神殿に踏み込んだとき、
アークはすでにここにありました」
一郎はその情景を頭の中で想像した。
炎に包まれるエルサレム。
崩れ落ちる神殿の柱。
その混乱の中で、誰の目にも見えない小さな存在たちが、
黄金の箱を静かに運び出している。
地上では歴史が動き、人々が泣き、神殿が燃え、
そして誰も知らないところで、
ある老人の判断がひとつ執行されていた。
「ノアは」
一郎はゆっくりと言った。
「それをどう思っていたんだろう」
「記録が残っています」
ブレインの声が部屋に響いた。
「ノア様は回収後の記録にこう記しています。
——『私の判断は間違っていた。
モーセは信頼に足る人物だったが、
私が過小評価していたのは、
モーセという個人ではなく人間という種の
時間的な連続性だった。
優れた個人に力を預けても、その個人は死ぬ。
死んだ後に力が何をするかを、私は考えていなかった。
これは私の失敗だ』」
部屋が静かになった。
一郎は、その言葉を何度か頭の中で繰り返した。
*これは私の失敗だ。*
何万年も生き、方舟を持ち、
人類の歴史を俯瞰し続けたノアが、そう書いた。
言い訳をしなかった。
環境のせいにしなかった。
モーセの後継者たちのせいにしなかった。
「私の失敗だ」と書いた。
一郎はこれまで、ノアという人物に対して、
どこか神話の中の完全な存在というイメージを持っていた。
何万年も生きて、すべてを見通して、
常に正しい判断をしてきた存在。
方舟という超技術を持ち、
小人を世界中に放って情報を集め、
七度の接触をいずれも切り抜けてきた存在。
でも、そうではなかった。
ノアは間違えていた。
信頼した相手の誠実さを見抜く目はあったが、
その先を——その人が死んだ後の世界を——見誤った。
そして見誤ったことを、
何万年の歳月を経た今も記録として残していた。
その人間らしさが、一郎の胸に染み込んできた。
「修理はしないのか」
一郎は箱を見たまま言った。
「動力源として使えれば、方舟の出力が上がるんだろう」
「修理はしません」
マリアが答えた。
「ノア様の指示です。
壊れた状態のまま、戒めとしてここに置いておくと」
「戒め」
「ノア様自身への戒めだったと思います。
そして継承者への戒めでもあります。
力があれば使いたくなる。
使うことを誰かに頼まれれば、応えたくなる。
相手が誠実であれば、なおさら。
しかし力は、使った後のことまで含めて
考えなければならない。
この箱は、そのことを忘れないための装置として、
ここに置かれています」
一郎はしばらく、何も言わなかった。
黄金の箱は、黙って佇んでいた。
蓋の上のケルビム像が向かい合って翼を広げたまま、
何万年もそうしてきたように、
これからも何万年もそうし続けるように、
静止していた。
映画の中でインディ・ジョーンズ
が命懸けで追い求めたものが、今自分の目の前にある。
あの映画を見たとき、一郎は画面の中の黄金の箱を
架空のものとして見ていた。
歴史の謎をドラマチックに仕立てた、
フィクションの小道具として。
それが今、本物として、
傷とくすみとともに、確かにそこにある。
架空だと思っていたものの実物を見るというのは、
奇妙な感覚だった。
世界の輪郭が少しずれるような、
自分が立っている地面の材質が変わるような。
「ノアは」
一郎はゆっくりと言った。
「失敗した後、何をした?」
「アークを回収した後、
ノア様は長い期間、方舟から
何も行わない時期がありました。
記録によれば数百年。
その後、小人型ユニットの設計を根本から見直し、
目撃された際の対処プロトコルを整備し直しました。
失敗を、次の行動の基準に組み込んだのです」
一郎は頷いた。
失敗は誰にでもある。
何万年生きたノアにも、ある。
問題はその後だ。
終わりにするか、糧にするか。
ノアは糧にした。
数百年かかっても、立て直した。
自分はどうだろう。
まだ何も始まっていないに等しい。
CIAが動き始め、工藤家が監視され、
自分は方舟の中で状況を眺めている段階だ。
これから先、必ず判断を誤ることがある。
ノアでさえ誤ったのだから、
十七歳の自分が誤らないはずがない。
そのとき、一人で考えていたら、きっとまた誤る。
一郎はマリアを見た。
マリアは静かに一郎を見ていた。
その顔には表情というものがあるのかないのか、
人間のように豊かな感情の揺れは見えない。
しかし、何かがそこにあった。
注意深さ、あるいは誠実さとでもいうべき何かが。
ブレインがいる。
マリアがいる。
ガルーダがいる。
クラーケンがいる。
そして地上には、工藤家の三人がいる。
一人じゃない。
一人で正しくあろうとするより、
間違えたときに指摘してくれる誰かを大事にする方が、
ずっと賢い。
ノアの失敗が教えているのはそういうことでもあると、
一郎は思った。
モーセを一人の人間として信頼したが、
その周囲を、その後を、誰かと一緒に考えなかった。
「マリア」
一郎は言った。
「はい」
「俺がおかしな判断をしそうになったら、止めてくれ」
マリアは少し間を置いた。
その間が、いつもより少し長かった。
「……承りました」
「ブレインも」
「了解しました、一郎様」
ブレインの声に、
いつもの機械的な均質さとは微妙に異なる
何かが混じっていた気がした。
「その言葉を、記録に残してよろしいですか」
「ああ」
一郎は言った。
「残しておいてくれ。将来の俺が読み返せるように」
スクリーンに工藤家の映像が映っていないこの部屋で、
一郎は黄金の箱を最後にもう一度見た。
動かない。
輝かない。
力を失ったまま、戒めとして佇んでいる。
これを作らせたノアも、間違えた。
だからこそこれが、教えてくれる。
一郎は部屋を出た。
廊下を歩きながら、マリアが隣に並んだ。
二人の足音が方舟の内壁に反響して、
静かに消えていった。
その先に、CIAがある。
工藤家への監視がある。
まだ解決すべき何かが、地上で動き続けている。
前田一郎は歩いた。
七万三千年の歴史の上を、
十七歳の足で、一歩ずつ。
---
*(第二部・第十一章 了 ――続く)*