の続きです
# 車輪の記憶
## 第五章 出したくないカード
「我が国の住民が――虐殺されているとの報告が」
その一言を聞いた瞬間、誉は言葉を失った。
全身から血の気が引いていくのが、
自分でもはっきりと分かった。
だが同時に、心のどこか冷めた部分が、
静かにこう囁いてもいた。
(――結局、そうなったか)
占拠された国境付近の地域に、
ユナイト連邦の治安部隊と称する軍が居座り続けてから、
すでに数週間が経っていた。
その間、誉は表向き外交による解決を
模索し続けてきたが、内心ではずっと、
この最悪の展開を予感していたのかもしれない。
この世界の軍隊というものが、
誉の知る自衛隊のような、
規律に厳格に縛られた組織とは根本的に異なることを、
誉はすでに嫌というほど思い知らされていた。
略奪、暴行、そして――今、報告された虐殺。
戦時、あるいはそれに準ずる状況において、
そうした犯罪行為が「当たり前のように」
行われることを、誉はこの世界に来てからの
短い期間だけで、痛感させられていた。
占領地に、規律もろくに保たれていない軍隊が
駐留し続ければ、こうした事態が起きることは、
むしろ必然だったのかもしれない。
誉は目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
そして、それまで意図的に手元に温存してきた、
出したくないカードに――ついに手をかけた。
「軍を派遣して、住民の保護をさせろ」
誉は、震えそうになる声を必死に抑え込みながら、
そう命じた。
「ただし――戦闘は厳禁だ」
治安部隊だけを送り込めば、
正規の軍隊を相手にしては全滅する可能性が極めて高い。
かといって、正面から軍隊同士をぶつければ、
それこそ誉が最も避けたかった、
全面的な武力衝突への引き金になりかねない。
誉に残された道は、軍を派遣して相手を牽制しながら、
あくまで住民の保護という一点に絞って対処するという、
極めて危うい綱渡りだけだった。
「付近の国民は、一時的に避難させろ。
強制的にして構わない」
誉は間を置かず、次の指示を続けた。
「死ぬよりも、マシだろう」
その言葉を口にした瞬間、誉の胸に鈍い痛みが走った。
住み慣れた土地を、家を、
強制的に追い立てられる国民たちの顔が、
目に浮かぶような気がした。
だが、それでも、命だけは何としても
守らなければならない。
なるべく国民への被害を最小限に抑えたい
――誉はその一心で、心を鬼にしてそう命じた。
「我が国に協力してくれる国は、あったか」
誉は続けて、そう尋ねた。
軍事的な対応と並行して、
誉が水面下で進めさせていた外交交渉の成果に、
藁にもすがる思いで期待をかけていた。
ユナイト連邦のこの横暴な侵略行為を、
公然と非難してくれる国を
――誉は探し続けていた。
(どこの国だって、いつ、
うちと同じ立場に立たされるか分からないはずだ)
誉はそう信じていた。
だからこそ、最悪の事態を避けるために、
互いに協力し合うべきなのだと。
一国だけでは到底防衛しきれなくとも、
複数の国家が手を取り合って対抗すれば、
侵略という選択肢そのものを、
相手に躊躇させることが出来る。
それこそが、誉がドイツで学んだ
「備え」の本質だと信じていた。
一国の孤立した強さではなく、
価値観を同じくする者たちが手を取り合うことで
築かれる、抑止のための連帯。
だが――現実は、誉のその願いに対して、
あまりにも冷淡だった。
そう簡単に、協力を申し出てくれる国など、
現れるはずもなかった。
どの国も、自国の利害と、
ユナイト連邦やその同盟国との関係を天秤にかけ、
あるいは沈黙し、あるいは曖昧な言葉で
同情を示すに留まった。
誰も、火中の栗を拾おうとはしなかった。
誉はその報告を受けるたびに、
国際社会というものの冷徹な現実を、
一つ、また一つと思い知らされていった。
「――ユナイト連邦と通じていた企業が、
判明いたしました」
その報告を受けた時、誉は一瞬、
僅かながらも光明を見出した気がした。
裏切り者の正体が明らかになったのなら、
少なくとも国内の膿を出し切ることは出来る。
誉は差し出された資料に手を伸ばし、
逸る気持ちで目を通した。
だが、その内容を読み進めるにつれ、
誉の顔から血の気が引いていった。
国に対して多大な献金を行い、
国外にもその名を知られた、
押しも押されもせぬ大企業
――それが、内通していたというのだ。
(――これは、単純に潰せる相手じゃない)
誉は資料を握りしめたまま、しばし呆然とした。
この企業は、国内に膨大な数の従業員を抱えている。
もしこの会社を今この瞬間に解体すれば、
街には大量の失業者が溢れ返ることになる。
ただでさえ食糧不足に喘ぐ国民たちが、
更に生活の糧までも失うことになれば
――それは、誉が守ろうとしているはずのものを、
自らの手で壊すことに等しかった。
誉は何度も何度も、資料と向き合い、
あらゆる選択肢を頭の中で検討し続けた。
全面的な解体。
一部部門の切り離し。
あるいは、国有化という手段もあるかもしれない。
だが、どの案にも、
実行に移すには大きすぎる代償が付きまとった。
試行錯誤の末に、誉が出した結論は
――社長以下、一部の重役に限定した検挙だった。
これならば、企業そのものは存続させることが出来る。
従業員たちの生活を、根こそぎ奪うことにはならない。
だが、それは同時に、
内通の全容を完全には裁ききれないという、
苦渋の妥協でもあった。
「受け皿が見つかるまでは、
潰すわけにはいかない、な……」
誉は資料を机に置き、両手で頭を抱えた。
その呟きは、誰に向けたものでもなく、
ただ自分自身に言い聞かせるための言葉だった。
完璧な正義など、この状況のどこにも存在しない。
誉はそのことを、痛いほど思い知らされていた。
虐殺を止めるために出したくないカードを切り、
国民を守るために強制的な避難を命じ、
裏切り者を裁くために不完全な妥協を選ぶ。
そのどれもが、何かを犠牲にしなければ成立しない、
危ういバランスの上に成り立っていた。
(それでも――僕は、この国を、
これ以上悪い方向には進ませない)
誉は窓の外に広がる、
重く垂れ込めた雲を見上げながら、
静かにそう心に誓った。
だがその誓いの奥底には、
拭いきれない不安が、確かに存在していた。
この綱渡りが、いつまで続けられるのか
――誰にも、分からなかった。
(以降、続く)