# 車輪の記憶

## 第一章 落下する空

 岡村誉が生まれてから十八年間、
東京の外で眠った夜の数は
片手で数えられるほどしかなかった。
修学旅行、家族旅行、
そして高校二年生の夏に三ヶ月だけ滞在したドイツ。
あとは幼い頃、祖父母の家で過ごした
数回の夏休みくらいだ。
今年の春、都内の大学に進学したばかりの誉にとって、
実家の外で夜を明かすということ自体が、
まだどこか非日常の響きを持っていた。

 ドイツ留学の記憶は、
誉の中で今も色褪せずに残っている。
ミュンヘンの寄宿先で見せられた教科書、
ホロコースト記念館の重い沈黙、
そして「二度とこの国に同じ過ちを繰り返させない」
と語ったホストファーザーの声。
誉はそこで、侵略戦争というものが
どれほど人間の尊厳を踏みにじるものかを、
頭ではなく胃の底で理解した気がした。
だからこそ帰国してからも、
誉は戦争というものに人一倍敏感だった。

 しかし――大学に入って出会った
「戦争反対」を唱えるサークルの先輩たちの
話を聞くたびに、誉の中には
小さな違和感が積もっていった。
彼らの多くは、軍備そのものを悪だと断じていた。
自衛隊の存在すら否定するような口ぶりの者もいた。
誉はドイツで学んだはずだった。
悪いのは侵略であって、国を守る力そのものではないと。

牙を抜かれた羊が狼から群れを守れないのと同じように、

備えのない平和など、
砂の上に建てた城でしかないのではないか。
そう思うと、誉はどうしても「反対」の
輪の中に無条件で入っていくことができなかった。
かといって声高に自説を主張する勇気もなく、
誉はいつも議論の外側で、
自分の考えを一人で抱え込んでいた。

 そんな誉にとって、
ゴールデンウィークに大学で出来たばかりの
友人たちに誘われたキャンプは、
久しぶりに何も考えずに済む時間だった。

「誉、テント張るの手伝ってくれよ」

「あ、うん、今行く」

 埼玉県の山奥、
川のせせらぎが遠くに聞こえるキャンプ場。
都会育ちの誉にとって、木々の匂いも、
湿った土の感触も、すべてが新鮮だった。
友人たちと不器用にテントを組み立て、
火をおこすのに三十分近く格闘し、
出来上がった夕食は
――お世辞にも美味しいとは言えない、
少し焦げた飯盒炊爨と生焼けの肉だった。
それでも誉は、こんなに味を気にせず笑って
食事をしたのは久しぶりだと思った。
誰かの失敗を囃し立て、誰かの武勇伝に大げさに驚き、
他愛もない話で腹を抱えて笑う。
味覚よりも、
この空気そのものが誉の胸を満たしていた。

 焚き火を囲んで話し込んだ話題は、
将来の夢から、大学の講義の愚痴、
好きな音楽、恋愛の話にまで及んだ。
誰かがふと「誉ってさ、ドイツ行ってたんだよな。
あっちの若い子って戦争のことどう思ってんの?」
と聞いてきた時、誉は一瞬言葉に詰まった。
うまく説明できる自信がなかったからだ。
それでも誉は、拙いなりに自分の考えを口にしてみた。

「向こうの人はさ、過去への反省はすごく強いんだけど、

だからって『軍隊はいらない』とは言わないんだよね。
反省してるからこそ、
二度と同じ立場に立たないために、
ちゃんと備えるっていうか……」

友人たちは意外そうな顔をしながらも、
誉の話に静かに耳を傾けてくれた。
誰も否定しなかった。
ただ「そういう考え方もあるんだな」と頷いてくれた。
それだけのことが、誉にはひどく嬉しかった。

 夜が更け、話し疲れた身体を引きずるようにして、
誉たちはそれぞれのテントに潜り込んだ。
シュラフのジッパーを首元まで引き上げると、
昼間の疲労が一気に押し寄せてきて、
誉の意識はあっという間に闇に沈んでいった。

 ――そして、それは午前二時過ぎに起きた。

 誉は周囲の喧騒で目を覚ました。
人の叫び声、テントの外を走り回る足音、
何かを叩きつけるような轟音。
寝ぼけた頭のまま、誉は寝袋から這い出し、
震える手でテントのジッパーを開けた。

 外に出た瞬間、誉が目にしたのは、
キャンプ場中の人間が右往左往する異様な光景だった。
何人かが空を指さし、
悲鳴とも警告ともつかない声を上げている。
誉はつられるように顔を上げ、夜空を見た。

 そこには――こちらに向かって、
まっすぐに落ちてくる巨大な機影があった。

 夢だと思った。
いや、夢であってくれと願った。
だが目の奥に映るその輪郭は、
あまりにも鮮明で、あまりにも大きくなっていく。
轟音が耳を、身体の芯までを揺さぶった。
逃げなければ。
頭のどこかは冷静にそう告げていた。
だが誉の足は、地面に根を張ったように動かなかった。
喉の奥から悲鳴を上げようとしても、
空気すら吸い込めない。

 自分の人生が、こんな形で、
こんなにも唐突に終わるなんて。
誉は一度も、そんな未来を想像したことがなかった。
ドイツで学んだこと、
大学で見つけたばかりの友人たち、
まだ何も語っていない将来の夢。
そのすべてが、頭の中を凄まじい速さで駆け巡り、
そして――光と轟音が、誉の意識を白く塗りつぶした。

## 第二章 閣下のお目覚め

 目を覚ました時、
誉は柔らかいものの上に横たわっていた。

 最初にそう感じたのは、
頬に触れる上質な布の感触だった。
キャンプ用のシュラフの、
あのごわついた化学繊維の感触ではない。
誉はゆっくりと瞼を開けた。

 視界に飛び込んできたのは、
見たこともないほど広い天井だった。
金の装飾が施された漆喰の縁飾り、
中央から下がる巨大なシャンデリア。
誉は弾かれるように身を起こした。
自分が寝ていたのは、天蓋付きの、
両手を広げても端に届かないほど大きなベッドだった。
部屋そのものも、
誉の実家のリビングが丸ごと入りそうなほど広く、
壁には見覚えのない紋章の掛け軸、
窓には重厚な緞帳。

「――ここ、どこだよ」

 誉は掠れた声で呟いた。
キャンプ場にいたはずだ。
友人たちと焚き火を囲んで、シュラフに潜り込んで、
それから――そこで思考が止まる。
飛行機。
落ちてきた、あの巨大な機影。
誉は反射的に自分の身体を見下ろした。
腕も、足も、どこにも怪我らしきものはない。
それどころか、着ている夜着は誉のものではない、
見たこともない仕立ての、
絹のような肌触りの一着だった。

 混乱したまま部屋を見回していると、
控えめなノックの音がした。
返事をする間もなく扉が開き、
モノトーンの制服に身を包んだ女性が入ってきた。
頭に載せた白いカチューシャ、
丁寧に結い上げられた髪。
誰の目にも明らかな、メイド服だった。

 誉は状況も忘れて、
一瞬だけ鼻の下を伸ばしかけた自分に内心で慌てた。
いや、今はそれどころじゃない。

「閣下、お目覚めになられましたか」

 メイドは深々と一礼し、静かにそう告げた。
その声には、誉に対する明らかな敬意と、
それでいて業務的な落ち着きが同居していた。

「閣下……? それ、僕のこと?」

 誉が思わず聞き返すと、
メイドは一瞬だけ怪訝そうに眉をひそめたが、
すぐにまた恭しい表情に戻って答えた。

「はい。
カール・フリードリヒ・フォン・ドライス閣下」

 その名前を聞いた瞬間、
誉の頭の中で何かが凍りついた。
カール・フリードリヒ・フォン・ドライス。
ドイツ留学中に、確か――自転車の原型となる
「ドライジーネ」を発明した人物として、
授業で名前だけ聞いたことがある。
誉の記憶の中では、その人物は
貴族であり発明家であって、
断じて「閣下」と呼ばれるような
統治者ではなかったはずだ。

(僕は、自転車の原型を発明した人になったのか……? 

それが、皇帝……?)

 誉の頭の中は、疑問符でいっぱいになった。
これは夢か、それとも本当に、
あの落下してくる飛行機に押し潰された
自分の意識が見せている、
最後の走馬灯のようなものなのか。

 だが誉の
――否、誉の身体に宿った「カール」の
混乱などまるで意に介さぬ様子で、
メイドは淡々と続けた。

「今朝も国内問題が山積みでございます。
早く対処なさいませんと」

 その言葉の重みに、誉は思わず息を呑んだ。
国内問題。
山積み。
まるでこの身体の持ち主が、
既に何らかの国家を背負う立場にあるとでも
言うかのような響きだった。

 誉が呆然としている間にも、
扉の向こうから次々と新しいメイドたちがやってきて、
誉――いや、カールの身体を取り囲んだ。
誰も彼の戸惑いになど気づく様子もなく、
手慣れた動きで夜着を脱がせ、
真新しいシャツに袖を通させ、
複雑な結び方のクラヴァットを首元に巻きつけていく。
抵抗する間もなく、誉はされるがままに、
見知らぬ誰かの
――いや、これから自分がそうならざるを
得ない誰かの姿へと、着せ替えられていった。

 鏡の中に映るのは、誉の見慣れた自分の顔ではない。
淡い金髪、意志の強そうな青い瞳を持つ、
まだ若い青年の顔だった。
だがその表情に浮かぶ困惑だけは、
間違いなく岡村誉自身のものだった。

(僕は、これから、
いったい何をさせられるんだ……)

 窓の外には、東京では決して見ることのない、
石造りの街並みが広がっていた。
誉の新しい――そして重すぎる一日が、
今、始まろうとしていた。

(以降、続く)