の続きです
# 車輪の記憶
## 第四章 強行の代償
「治安組織による取り締まりで、
違法行為をするイスマム人の逮捕は出来ないのか」
誉は、こみ上げる焦燥を
必死に抑えながらそう尋ねた。
これだけの被害が積み上がっているのだ、
既存の法執行機関で対処できないはずがない
――そう信じたい気持ちが、
質問の端々に滲んでいたかもしれない。
だが返ってきた答えは、
その淡い期待をあっさりと打ち砕くものだった。
「治安部隊が出動した時には、
すでに犯行後であることがほとんどです」
報告した男の声には、疲労と諦めが混在していた。
「イスマム人は虚偽の証言を行い、
自分の犯罪をなかったことにしようといたします。
あるいは多言語を用い、
意図的に言葉を通じさせないようにいたします。
更には、裏で通じている企業がこれを擁護し、
『差別だ』と騒ぎ立てて、
取り締まりそのものを妨害してまいります」
誉の中で、何かがぷつりと切れる音がした。
(――これは。これは、日本と同じだ)
誉の脳裏に、ドイツ留学から帰国して以降、
テレビや街角で幾度となく目にしてきた光景が蘇った。
弱腰な対応が、問題を悪化させる
一方でしか機能しなかった祖国の姿。
取り締まりを強めれば「差別だ」と声高に非難され、
かといって放置すれば被害はじわじわと拡大していく。
誰も彼もが「もっと早く、もっと強く対応していれば」
と口にする頃には、すでに手遅れになっているという、
あの繰り返しを、誉は何度も目の当たりにしてきた。
ニュースの向こう側の出来事だと思っていたそれが、
いつの間にか自分の生活圏の中にまで
入り込んでいたのを、誉は肌で知っていた。
(もう、同じ轍は踏まない)
誉の中で、静かに、しかし確固たる決意が固まった。
ここで多少強引な手段を用いてでも、
早期に食い止めなければ
――問題は間違いなく拡大の一途を辿る。
それは、これまで報告を聞いてきた
わずか数時間の間だけでも、
痛いほどに理解できていた。
「治安部隊で人員が足りないというのなら」
誉は、震えそうになる声を
腹の底から押し出すようにして続けた。
「軍を出動させろ。
違法行為を行うイスマム人を捕縛し、
強制送還しろ」
会議室にどよめきが走った。
だが誉は構わず続けた。
「抗議する企業についても同罪として罰するように」
不法入国したイスマム人の数の多さを鑑みれば、
治安部隊だけでの対処には限界がある。
誉はそう判断し、軍の出動を許可した。
だが、その決断を下した瞬間にも、
誉の胸の奥では、もう一人の自分が必死に囁いていた。
(殺害するわけじゃない。
あくまで、捕縛と送還だ。それだけだ)
自分にそう言い聞かせなければ、
この決断の重さに押し潰されてしまいそうだった。
自国民を守るためには、
違法行為を働く外国人を強行的に罰していくしかない。
誉はそう自分に言い聞かせた。
国というものは、そもそも同じ価値観を持つ人々が、
共同で自分たちの暮らしを守るために
作り上げてきたものだ。
ごく少数の、異なる価値観を持つ者たちの
身勝手な行動によって、
多くの国民が理不尽な被害を被る事態を、
国の長たる者が見過ごすことなど許されない。
もしその判断すら下せないというのなら
――その人間には、
そもそも国の長に立つ資格などない。
誉は膝の上で、震える拳を強く握りしめた。
――そして、三ヶ月が経った。
国境付近に不法入国していた外国人たちは、
軍と治安部隊の合同作戦によって次々と捕縛され、
強制送還された。
その過程で、いくつかの小規模な衝突が起きた
という報告も上がってきたが、
誉が最も恐れていたような大規模な流血には
至らずに済んだ。
誉はその報告を受けるたびに、安堵と、
それでもなお拭いきれない罪悪感の間で、
複雑な思いを抱き続けていた。
だが、この強行的な措置に対して、
隣国からは即座に非難声明が発表された。
「人権を無視した強制排除である」
「多文化共生の理念に反する暴挙だ」
――そうした言葉が、外交ルートを通じて
次々とカールの元に届けられた。
誉はそのたびに、外務を司る官僚たちを通じて、
自国の立場を強く主張させた。
「これは自国民を守るための、
正当な犯罪者の排除に過ぎない」
その一点だけは、誉は決して譲らなかった。
譲ってはいけないと思った。
ここで一歩でも引けば、
この三ヶ月間の対応そのものが、
無意味なものになってしまう。
だが、事態は誉の想像を超えて、
更に悪い方向へと転がっていった。
イスマム国の同盟国である、ユナイト連邦。
その国が、「イスマム人保護のため」と称して、
国境を越えて治安部隊を派遣してきたのだ。
その報せを聞いた瞬間、
誉は椅子から立ち上がりかけた。
(これは――どう考えても、内政干渉だ。
いや、それどころか)
誉の背筋に、冷たい汗が伝った。
他国の軍事力を、要請もなしに、自国の領土内へ、
しかも実力をもって送り込んでくる。
それは、誉がドイツで学んだ歴史の教科書の中で、
幾度となく目にしてきた「侵略」
という言葉の定義そのものに、
限りなく近いものだった。
(絶対に、してはいけないと誓ったはずのことが
――今、自分の国に向けられている)
誉の胸の中で、皮肉な感情が渦を巻いた。
侵略戦争を憎み、二度と繰り返させてはならないと
誓ったはずの自分が、今まさに、その侵略の側から
――否、侵略される側から、この事態を見つめている。
誉は震える声を必死に押さえつけながら、
居並ぶ重臣たちに向けて指示を下した。
「すぐに軍隊を送ることは避ける」
その一言に、会議室の空気がわずかにざわついた。
強硬な対応を予想していた者たちにとって、
それは意外な判断だったのだろう。
だが誉には、確固たる考えがあった。
ここで即座に軍を動かせば、
それこそ相手に「先に武力を用いたのはこちらだ」
という口実を与えてしまう。
それだけは、絶対に避けなければならない。
「ユナイト連邦の行為は、明確な侵略行為である。
早急に、そして完全に撤退するよう、
あらゆる外交ルートを通じて強く抗議しろ」
誉はそう命じた。
声は震えていたが、その芯だけは、
決して揺らがせないよう強く意識した。
だが――返ってきたユナイト連邦の主張は、
誉の想像を更に上回る、悪意に満ちたものだった。
「これはあくまで、
イスマム人救援のための人道的措置である」
「加えて、地元企業からの
正式な要請を受けた上での行動である」
そう主張したユナイト連邦は、撤退の要求を無視し、
あろうことか国境付近の一部地域を占拠したまま、
居座り続けたのだった。
その報告を受けた誉は、拳を握りしめたまま、
しばらく言葉を発することが出来なかった。
頭の中では、様々な感情が渦を巻いていた。
怒り、焦り、そして――言いようのない恐怖。
(僕は、戦争だけは、絶対に起こしたくない。
それだけは、絶対に――)
だが、目の前の現実は、
その願いを嘲笑うかのように、着実に、
そして残酷に、望まぬ方向へと形を変えつつあった。
誉は窓の外に広がる、見知らぬ国の空を見上げた。
そこには、あの夜、キャンプ場で見上げた、
落下してくる巨大な機影の記憶が、
不意に重なって見えた気がした。
(以降、続く)