慶良間諸島おとこひとり旅|慶良間の戦跡を訪ねて | ワークライフバランスで行こう!

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~阿嘉島|ニシバマ~

2015年12月3日から2泊3日で沖縄本島、慶良間諸島を旅してきた。
戦後70年。
2015年のひとり旅は戦跡を訪ねてまわることをひとつのテーマにした。


座間味島の戦跡

1945年3月26日。
沖縄本島への上陸を前に、米軍はまずは慶良間諸島を補給基地とすべく制圧した。
座間味港の近くに、太平洋戦争沖縄戦上陸第一歩之地という碑がぽつんと立っている。
「昭和二十年三月二十六日午前九時上陸」と記されている。




高月山の中腹には平和之塔が立っている。
坂道の途中にある平和之塔入口から階段を登って行くと、座間味の集落と慶良間諸島を見下ろせる高台にその塔は立っている。
軍人と民間人合わせて、1,200柱余の御霊を祀っている。






平和之塔入口からもう少し登ったところには、集団自決之地の碑が立っている。
産業組合の壕で当時の村長、助役、収入役とその家族らが集団自決をした。
民間人59名が亡くなった。
たくさんの子どもたちも一緒に星になった。




阿嘉島の戦跡

阿嘉島は米軍が最初に上陸した島だ。
阿嘉港の近くに「平和の火 採火記念碑」が立っている。
この場所で平成3年6月26日に「平和の火」を採火した。



沖縄本島の平和祈念公園で灯されている「平和の火」は、沖縄戦の最初の上陸地である阿嘉島で採取した火と、被爆地である広島市の「平和の灯」、長崎市の「誓いの火」のそれぞれの火を集めたものだ。


慶留間島の戦跡

阿嘉島から阿嘉大橋を渡って慶留間島に入ると、すぐ右側の断崖には海と水平に掘られた壕がある。
陸軍の特攻艇「マルレ」の秘匿壕だ。
海軍の特攻艇「震洋」と同様に、ベニヤ製のボートに自動車用のエンジンを搭載した、いわゆるモーターボートだ。
ボートの後部に250kgの爆雷を搭載し、敵艦船に体当たり攻撃をする。






慶留間島の集落に入るとすぐ「伊江村民収容地跡記念碑」がある。
1945年4月21日に米軍が伊江島を占領。
捕虜となった伊江村民2,100名が、渡嘉敷村と座間味村に強制収容された。
終戦50周年を記念して、慶留間島の住民に支えてもらった感謝の気持ちをこめて、伊江村民によって建立された記念碑だ。




伊江村民収容地跡記念碑の近くの、慶留間島の集落を見渡せる丘に「小鳩の塔」が立ってる。
ここ慶留間島でも集団自決が行われ、子どもを含む53名が亡くなっている。
戦争で亡くなった子どもたちを追悼する塔だ。
小鳩の塔が見つめる先には、慶留間島小中学校の学び舎がある。








戦火を免れた高良家にも、戦争の爪痕が残っている。



米軍機の機銃掃射による弾痕が、家屋を支える柱に生々しく残っている。





高良家の家主は、生前、戦闘機の増槽(燃料タンク)をサバニ代わりに使っていたらしい。
慣れないと、すぐに横転してしまうが、高良家の家主は上手に操ったらしい。
写真はその現物だ。




外地島の戦跡

外地島から慶留間島に渡る慶留間橋の手前に、海岸に下りていける脇道がある。
その坂を下ると、慶留間橋のたもとの真下に出る。
目の前には海を挟んで、慶留間小中学校が見える。

そこに「世界平和祈念碑」が立っている。
阿嘉島と同じく、1945年3月26日の早朝8時頃、この海岸に米軍が上陸した。

美しい白い砂浜。
ここに水陸両用の鉄の塊が、青い海から何台も上陸してきたことが信じられない。
でも事実である。






旅のおわりに。。

2015年は1月に慶良間諸島の渡嘉敷島にはじまり、6月の奄美群島、7月には八重山諸島、そして旅おさめの今回は慶良間諸島の座間味島、阿嘉島、慶留間島、外地島とまわった。
すべての旅で、必ず現地の戦跡を歩いた。
戦後70年という節目の年であったわけだが、戦後71周年の2016年の旅も、忘れてはいけないもの、風化してはいけないものを、自分の足で訪ね、目で見て、肌で感じて、自分の記憶に残したい。
そう思っている。