9月10日、淡路自由空間倶楽部において森田昇氏をお招きし、
【転機、思った時が始まり】と題して、お話を伺いました。
パネラー: 森田昇 氏「弱視」鍼灸・マッサージ・柔道整復師
みなさんこんにちは。東住吉から来ました森田昇と申します。よろしくお願いします。
鈴木さんからウイズで話してくれないかとの依頼がありました。
人にお話しできるような事はないんですが。・・・・「謙遜だと、鈴木は思っている。」
などの冗談を交えながら、話は始まりました。
<<中学校で先生からいじめ?>>
元々、子供の頃から強度の近視だったんです。
メガネも牛乳瓶の底の様なメガネをかけていましたので、よくからかわれました。
小学校の頃は、近視の事はあまり気にならなかったんですが、中学になると、
ぽつぽつと近視を意識するようになりました。特に体育の剣道の授業の時など、
僕はメガネをつけていますので、防具はつけづらいのです。それに、
対戦相手は「剣道部」を当てられたんです。そりゃあもう、先生を恨みましたよ。
今だにその先生の名前は覚えていますよ。「鈴木」って言いまんねん。「笑い」
クラブはサッカー部に入っていたんです。けど、当時のサッカー部というと、
今のように人気のある、クラブでもなく、注目度の少ないクラブでした。
僕はメガネをかけていたので、ヘディングがしにくいんですね。
でも、練習はしなくてはいけないんで、やるんですけど、ちょっと早めに頭を下げると、
脳天に当たって痛いし、下で受けるとメガネの鼻の目頭の間のメガネ受の部分に
衝撃を受け、痛いんです。そんな大変なこともありましたが、楽しかったです。
生野中学という所に在籍していたんですが、サッカー部の連中と他のクラブの仲間と
大阪城までランニングで往復したものでした。
Qーー片道どれぐらいあるんですか?と突然の質問。
Aーー電車の駅で言うと、寺田町→桃谷→鶴橋→玉造→森之宮の往復ですからね。
どれくらいあるんでしょうかね。
その後、高校に進学するんですけど、僕自身は就職が決まっていましたので、
高校進学のつもりはなかったんです。ところが、友達が、全日制高校受験で
失敗したんです。その友人が、「定時制に行こうと思ってんねん。」と誘われて、
生野の大阪府立勝山高等学校の定時制に一緒に行くことになったんです。
これが、その後の人生の大きな「転機」になっているんです。・・・・
「僕、話のタイトル言うの忘れてましたね。」テーマを改めていうと、
「転機・思った時が始まり!」です。転機は人によって違いますし、
大きい小さいもありますから、ひょっとしたらこの場も転機になるかも知れませんね。
無事高校に合格。同級生というのが40・50歳のおっちゃんなんかが
たくさんいるんです。授業が終わって「お茶でも飲みに行こうか?」、
「いや、子供が待ってるから帰るわ。」こんな感じで普通の高校生とは
ちょっと違うなあと思いました。
皆、大人で昼間は仕事をしていますから、ちゃんと喫煙室があるんです。
1年生は遠慮して行かなかったんですが、僕は先輩がいましたので、一緒について
喫煙室でタバコを吸っていました。また、今では考えられないんですが、
休みの日などは先生の家に行って酒など一緒に飲んでました。
<<コンタクトレンズに感激>>
この頃から見え方が悪くなってきたんです。夜間照明ではサッカーが
続けられなくなってきたんで、サッカー部も止めました。
高校3年の時、網膜剥離で左目を手術のかいもなく、失明しました。この後、
コンタクトレンズと巡り合ったんです。今まで、何をしても視力が出なかったんですが、
この頃世間に出だした「コンタクトレンズ」を知り、右目に試着しましたら、
「なんやこれは!」と思いました。めちゃめちゃ見えるんですよ。メガネと違い
風呂に入っても曇りませんし、うどんを食べても曇りません。
視力が出たので、高3の終わりぐらいに自動二輪の免許を取りました。
<<幸福と同時に不幸が?>>
唐突だと思いながらも、親父にオートバイを買いたいから
「お金ちょうだい」と言ったんです。なぜか、ポンと10万円をくれたんです。
その当時ナナハン「ホンダCB750」は新車で38万円もし、軽四「ホンダN360」より
高かったんです。年末だったんで、来年早々に陸運局でナナハン登録をしようと
予定してたんですが、年が明けた三日に親父が食道静脈破裂で突然亡くなったんです。
元々酒が好きで飲み過ぎだったんです。兄弟や母親から
「お前暮れに金もうとったなあ」と言われ、10万円は吐き出さされました。
そこからぼつぼつ貯金してたんです。そしたら、あるオートバイグループと
知り合いになりまして、今度一緒に走ろうやって事になりました。
友達が参加できなくなり、急遽自分が集まりに参加したんです。そいつらは、
出始めのナナハンに乗ってたんです。友達の仲間の一人が免許取り消しになっていて、
当分バイクに乗れないんで、譲渡してくれと頼んだんですが、持ち主は
ナナハンに熱い思いがあり、売ってくれませんでした。
そこで、ぼちぼち貯金をし、やっとナナハンを買ったんです。あと二日か三日で
納車という時に、仲間の一人が事故をお起して、亡くなったんです。
僕にはこういう嬉しいことと悲しいことが同時に起こる傾向があるように思います。
なんで亡くなったって聞くと、「寝屋川バイパスの欄干を飛び越し、落下事故で
亡くなったそうです。」そんなこともあるんやなあと思いました。
購入したナナハンで走りまくるんですがね。今のように暴走族と違い、少数で競走の
しあいなんです。ある日、鈴鹿サーキットへ行った帰り、あるグループと競走に
なったんです。なぜか、サーキットの帰りは、テンションが上がっているのか、相手が
あれば、競走になるんです。相手のチームは50台位いたんです。こちらは10台足らず
でした。ところが、相手のグループをバラバラにしてしまったんです。
ROMとチーム名はクレージーな名前だと有名になり、ROMを見たら相手にするなと
回覧が回されたんです。そんな仲間と今だに付き合っています。
<<アルサロの元祖、夢の国で働く>>
当時アルサロの元祖と言われる「夢の国」という店がありまして、そこで、
アルバイトを始めたんです。喫茶店の時給が380円のころ、僕は600円もらって
たんです。で、昼間も仕事をしていますから、その頃は一番裕福でしたね。「笑い」
だって、昼夜働いて、使う間がないんですから。夢の国にはステージがあって、
生バンドが入っていたんです。バンドのドラマーが歌手の瀬川瑛子の夫なんです。
<<夢のスカG購入>>
そんなこんなで、会社を辞めることになりました。辞めるまで、暴走行為を
やってたんですが、ある人に「車乗れへんのか?」と言われ、車やったら
「スカGしか乗れへん」と言ってたんです。仕事していると、朱色のスカGが来たんです。
「どや、これ!」と言うんで、「よっしゃ、買うた!」の乗りで、現金で買いました。
その時は自分の好きだったスカGは売ってなくて、ケンとメリーのスカイラインの
時代でした。なので、中古車でした。
Qーー 警察に捕まることはなかったんですか?
Aーー オートバイの時、捕まりました。
<<24歳の頃から、鶴橋卸売り市場の鰻店に勤務>>
話を聞いていると、森田さんはいろんな職業についておられました
。一番長く勤めたのが、うなぎ屋さんでの15年間の勤務だったそうです。毎日毎日
うなぎをさばいていたそうで、器用な一面を感じさせられました。
ここでの勤務があり、障害「2級」を持ってから厚生年金障害年金を受給されています。
<<平成7年大阪府立盲学校理療科入学、平成13年柔整科卒業。同年開業。>>
盲学校に入学で、鍼灸マッサージ科および、柔道整復士取得の課程に進学できたのも、
あの友達に誘われた定時制高校を卒業した資格があったことが、大変役にたったと回想。
これも、一つの「転機」だと思っている様子でした。