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ウイズ東淀川のブログ

平成6年7月から、東淀川区において結成された、コミニケーション・ボランティア・グループです。
奇数月の第二日曜を定例会とし、【共生】を理念として、共に語り・共に学び・共に遊んでみませんか「をキャッチフレーズに、誰もが集える」場を提供しています。

ウイズ東淀川9月のであい
テーマ:新しい世界との出会い。ボランティア「CVJ」などとの出会い
パネラー: 田村智子 氏
日時: 9月9日「日曜」 午後1時半から4時ごろまで
場所: 大阪市東淀川区淡路5丁目10番7号.
お問い合わせ先 090ー2598ー9528 鈴木まで
会費 なし

 

☆私は定年退職後、60歳からの人生のモットーとして“これまでに経験したことのない
ことをしよう、
行ったことのない所に行こう” “今までの業界(管理栄養士:医療業界)とは違う人々とも
交流しよう”

 

“ボランティアもしよう。自己満足かもだけど微力でも役に立てれば嬉しい”などを思い立ちました。

 

そこで、ピアノや日本画を習い始めたり、一人でふらっと東北旅したり、

 

カンボジアで透析腎臓病の医療関係者に食事療法に関して英語スピーチさせて
いただいたり

 

(英語をカタカナ書きしていましたが)などなど、トライしてきました。

 

そんな折、高校の同窓会で隣に座られた先輩からボランティアサイクリングCVJの
存在を教えていただき、2016年4月にしまなみ海道サイクリングに初参加しました。

 

そこでの出会いは私に大きな衝撃を与えてくれました。

 

★新しい出会いをお聞きしましょう「鈴木から」

 

 

 7月8日淡路自由空間倶楽部において、淡路こども食堂」が出来るまでと、
出来てからと題し蔭山 力雄 氏をお招きし、定例会を開催しました。
パネラー: 蔭山 力雄 氏 NPO法人自由空間倶楽部代表

 

『設立目的』
 ☆2015年特定非営利活動法人自由空間楽部開設から、13年になります。
「地域に根差した文化を咲かせたい!地域で楽しく過ごしたい!」をテーマに、
「淡路公園祭り」や「移動動物園」等、「アート・文化を地域・こども・高齢者に
届けよう」と活動してきました。結果、こどもたちとの触れ合う場所を、
「子どもの貧困」と共に、創りたいと考えました。

 

 <<>大人と子供で食べてワンコイン>>
 他区では無料のこども食堂もあるんですが、私どもは大人400円子供100円を
いただいています。この値段の結果一回目のこども食堂の赤字は300円の赤字で
治まりました。
しょくざいは?との質問にーーこの活動に賛同いただいている市民生協から提供して
いただいています。との返事。淀川市民生協は肉や野菜の生鮮食品がないんです。
カレーなんかはあるんです。冷蔵コロッケもないんです。カレーはいただいています。
カレーの場合肉・野菜などは買わなければなりません。

 

西成の子供食堂は?との質問に、・・・無料で提供しています。
Q:余った食材は?・・・
A:ほしい方もおられるかも知れませんが、生協との契約で横流しはできないことに
なっています。もし、それが原因で食中毒などあると生協との契約違反になります。
生協との契約書には何種類何品を提供していただくか契約しています。最初は
自由空間クラブだけだったんですが、だんだん増えてきて、茨木・高槻の社協や
その他7件ほど契約しているようです。自由空間倶楽部の取り分も貰い放題では
ありません。それでもですね、お米だけは山ほどもらえるんです。

 

参加者から
Q:毎会赤字にはならないんですか?
A: 赤字ではないです。仕入れと売り上げを比べると何千円マイナスだったり、
+だったりして、現在一万数千円の繰越残高があります。それを元に必要なものを
買います。正直言いますと、光熱費が一番の負担なんです。ガス代水道代は自分持ち。
子供食堂の活動は自由空間倶楽部の活動でして、理事会で月一回ぐらいの開催だったら
できるんじゃないかと決議したものです。理事の方や知り合いの援助を得ながら
活動しています。

 

Q: 市民生協との話し合いは初めから順調だったんですか?
A: 市民生協も協同組合だし、地域にいろんなサービス・健康に役立つなどテーマを
持っているんです。それとこども食堂は相通じるんです。年間に何百トンという
廃棄する食品が出るわけですから。
~~参加者から~~
3回ぐらい来させていただきましたが、いつも満員じゃないですか?
~~
そうなんです。多い時で子供48人。大人30数人。ボランティア10人。
なので、80 食は用意しています。
Q:今回でなんかいめですか?
A:22回目です。ざっと2年になります。
Q:他のこども食堂のメニューは他人に聞くと、毎会カレーばかりだと言う事ですが?
A:基本的にいただいたものを提供しています。

 

<<今までの活動に閉そく感?>>
 NPO法人自由空間倶楽部として、今後どういう風に活動するか?何をするかと
言う事で、行き詰っていた感がありました。イベント「移動動物園」や地域のお祭りを
やっていても、そんな一過的な事でいいのか。それが、地域で楽しく過ごしたいという
テーマに本当になるのか?イベントをすれば、子供は来なくてお年寄りばかりが集まる。
どうしようかなあと考えていたところに「こども食堂」があったんです。

 

>>西淡路小学校と淡路小学校の合併がきっかけ>>
西淡路小学校が大きいんですけど、それを閉鎖して、淡路小学校を西淡路小学校とすると
いうんです。そこには地域性があります。
私は西淡路小学校に1年で入学し3年で淡路小学校へ転校したんです。その後、
私も子供達も淡路小学校から淡路中学へいったんです。
小学校の合併には私は反対でした。

 

西淡路小学校の区域には朝の子供食堂ができたんです。元淡路小学校の子供達が
西淡路へ行くのは大変だと聞き、子供食堂の設置基準では、小学校区に一つと聞いて
いましたので、それは急がなくてはと思いました。地元の元淡路小学校の子供が
ストレスを発散できる場所が必要と考え、子供食堂の出店を決めました。

 

 また、淡路診療所の理事をしていて、市民生協と淡路自由空間倶楽部で
トライアングルを作って、形のあるものを作っていきたいと思っています。
市民生協にもビジョンを説明し、是非応援してほしい旨を伝えました。二月ほどして、
「協力しましょう」との返事がありました。今年の市民生協の総大会にも参加しました。
市民生協は20万人の組合員で、年商140億円。報告書に自由空間倶楽部の子供食堂に
支援していますと、発表され、生協も評価してくれているんだと思いました。また、
フードバンク「参照1」の集まりにも出席しましたが、淀川生協と直接繋がりがあるん
だから、フードバンクを通さなくても生協に直接食品をいただくことになりました。

 

参照1--フードバンクで扱う食品・扱えない食品. 加工食品の場合、賞味期限が
1ヶ月以上のものをお受けしています。 フードバンクでは、食べ物を右から左へ
横流しするのではなく、 “マッチング”といって、必要なものを必要な数だけ必要な
ところへお渡しします。

 

フードバンク関西は、企業などから寄贈された食品を、支援を必要とする人たちを
支える福祉施設や団体に、無償で分配する事業をしています。

 

平成30年5月13日 ウイズ東淀川定例会

テーマ: ボラセン30年つかってしまって、しまったこと、よかったこと
脇坂博史(わきさかひろふみ)氏

 

 大阪市社会福祉協議会(以下、「社会福祉協議会」は「社協」と表示)では、
1968年から「地域福祉活動モデル地区」事業をはじめ、1988年の終了までに、
当時310校下社協のうち、130社協を指定しました。これらの活動が、大阪市における
地域福祉活動(ボランティア活動)の源流になっています。
1987年11月、現・大阪市立社会福祉センターが開設されますが、その前の3月に、
センター建設のため移転していた元身体障害者福祉センター(現・ピースおおさかの
場所)で、大阪市ボランティアセンター(以下、「ボランティアセンター」は
「ボラセン」と表示)が開設されていました。

 

企業の社会貢献活動の活発化
 日本では、1990年をフィランソロピー元年といわれています。これは経団連
(経済団体連合会)が、アメリカでの活動をモデルに「1%クラブ」の提唱を
したためです。これを機に活動への姿勢は変化します。例えば、サラリーマンの
ボランティアに対して、当時はまだ携帯電話が普及していませんでしたので、
「至急のときに会社へ電話してもいいですか?」と聞くと、80年代は「それは絶対
しないでください!」でしたが、90年代になると「ああ、いいですよ」に代わって
いきました。ボランティア活動がそのように社会で受け入れられるように
なっていったのです。
1991年になると、企業からの問い合わせがはじまりました。大企業はそれまでも
社会貢献活動に関心はあったのですが、地元住民への貢献を考えると、どのように
アプローチすればいいのか行き詰りました。そこで担当者はいろいろ調べ、社協という
組織に当たります。しかし、社協に企業から問い合わせがあるということはそれまで
あまりないことでしたので、少々まごついたのも事実です。半年ほどの間に14~5社から
連絡があり、このままにしておくわけにはいかないということで、9月に
「企業ボランティア活動担当者懇談会」を開催します。そういう流れは労働組合の
社会貢献活動へも影響していき、企業のボランティア活動調査や、社員や労働組合員
などへの講座開催などを通して、大阪市ボラセンは広範なネットワークが結ばれて
いきます。そして、1999年にはじまる「ボランティア・市民活動フェスティバルin
おおさか」(大阪城公園・太陽の広場)の開催などにつながっていきます。

 

夏休みのボランティア活動の展開
全国的に展開されていた福祉協力校を通じて、夏休みに子ども達が社会福祉施設で
活動する流れはありましたが、大阪市ではこの取り組みがなかったことから、社協独自で
展開していくこととなり、小学3年生~高校3年生が夏休みに福祉施設で3日間活動する
「福祉ちょっと体験スクール」が1993年から開始されました。初年度から760人の
申し込みがあり、2年目に1,000人、1999年には2,600人をそれぞれ超え、
関心の高さがうかがえました。
また、高校を卒業した方々からも参加したいという要望を受け、1998年から
18歳以上版として「実感ボランティア・夏場所」をスタートしました。

 

 しかし施設での活動では、10時から16時くらいの活動になります。高齢者や障がい者を
理解するには寝食をともにすることも大切ではないかという視点から、2003年から、
子ども達と障がいのある方々が一緒に参加する2泊3日の「キャンプ(宿泊)プログラム」
を導入しました。最初は戸惑い気味の子ども達も、徐々に慣れ、3日目には車いすの
介助や視覚障がい者への手引き、食事の世話などを積極的(取り合うように・笑)に
おこなうようになりました。

 

情報誌の発刊
 90年代になり、社会人のボランティア活動が盛んになっていきますが、情報の提供は
充分ではありませんでした。「活動をしたいがどこに行けばよいのか?」「どういう
活動があるのか?」という声も聞こえてきました。どうすれば情報を届けられるか・・・
そこで駅頭に配架すれば、通勤途上に取ってもらえるのではないか。ということで、
1994年4月に ボランティア活動情報誌「COMVO」の発行がはじまりました。
写真を軸にした編集で予想外の反響があり、特に障がい者の方から「どちらかというと
イメージが暗い活動がライト感覚で紹介され嬉しい。障がい者の施設にも
配布してほしい」というものでした。
 当時の大阪市交通局の協力もいただき、地下鉄全駅に配布させていただくところから
スタートしました。

 

「サロン活動」の推進
 冒頭の「地域福祉活動モデル地区」を担当するなかで、地域活動にもっと高齢者、
障害者など、いわゆる当事者の参画が重要だと考え、1987年から始まっていた
「サロンあべの」の活動を広げたいと考え、主宰の冨田慶子さんに相談。
「ぜひ拡げてください」との力強いエールをいただき、淀川区社協と連携し、1994年に
「サロンよどがわ」が始まりました。1か月後、「ウィズ東淀川」もスタート。
こうして、なぜか2年間に2か所のペースで広がり、最大時は大阪市内12か所で
サロンが行われました。
これらの活動は、1997年「第33回全国身体障害者スポーツ大会・ふれ愛ぴっく大阪」で、
「ふれあいフレンド」に結実しました。これは、それまで観客の全くいない大会の
繰り返しでしたが、大阪での大会で応援団を作ろうというものでした。サロンの
メンバーを中心とする実行委員会には、さまざまな障がいのある方々も参画。
大会では400~500人の観客が長居競技場に集まりました。一番喜んでいたのは、
競技をしていた選手たちだったのが印象的でした。

 

ネットワークに感謝
 約30年のボラセン活動で、多くの方々と多様なネットワークができました。
 心から感謝しています。

 

テーマ: ボラセン30年つかってしまって、しまったこと、よかったこと
内容・60年代に盛んになりはじめるボランティア活動が、
90年代に新たな流れがでてきます。
そこで考えたこと、動いたこと、創ったことを紹介し、ごいっしよに考え、
これからのボランティア・市民活動を探ってみましょう?

 

パネラー 脇坂博史(わきさかひろふみ)
日時5月13日「日曜」午後1時半から4時ごろまで
場所:淡路自由空間倶楽部
会費 なし
お問い合わせ 鈴木昭二 090ー2598ー9528まで

 3月11日淡路自由空間倶楽部において、竹田 幸代「ゆきよ」氏をお招きし、
定例会を開催しました。
テーマはキラキラが見えなくなっても、自分がキラキラしていよう!

 

パネラー: 竹田 幸代「ゆきよ」 氏 (視覚障害2級)弱視

 

☆ こんにちは、竹田幸代と申します。よろしくお願いします。
私は消費生活アドバイザーでして、ここにおられる徳田さんは大先輩です。
現在視覚障害の2級なんです。この場の見え方と言いますと、顔なんかも
分りにくいですね。人影も逆光になっているので、なんとなくバラバラと
映っている感じです。中途の視覚障害で、明るい場所が分かる程度です。
また、近畿ビジョンサポートと言う視覚障害者の人達「ロービジョンですね」を
サポートするボランティア団体の代表をしています。

 

<<視覚障害と診断されたのは、中学1年の時>>
 その頃、視力は0,7から8はあったんだと思います。昔は学校の健康診断で
1,0を切ったら眼科に行けと言われたんです。で、眼科に行って、
その頃奈良県に住んでいたんで、だったら天理病院がいいんじゃないかと
言う事になりました。天理病院では、「メガネ矯正はやってません」という
事だったんですが、「夜も見えません」と言うと、ちょっと待ちなさいよってことで、
検査をされました。そこで診断されたのが、「網膜色素変性症」でした。
この病名を聞いたのは始めてでした。医師の説明によると、病状は緩やかに
進行するらしく、人によっては進行の速度は異なるが、将来的には視野が
点ぐらいになって、大変見えにくくなる人もいるし、ずっと今のようなままの
人もいるとのこと。担当女医によると、「何に困るかと言うと、仕事に困るんです。」
と言われ、将来に備えなさいと言われました。その時中1だったんですね。
本人は「そうか大学に行っても就職すると首になるんだ」専門学校に行って、
手に職をつけるのがいいのかなあと思いました。その時点では、あはきの知識は
ありませんでした。漠然と就職すると首になるのなら、自分で経営者になると
いいのかなあと考えました。
そのころから美容などに興味があったんで、美容師の専門学校のパンフレットや
入学願書を取り寄せたり、していました。でも、中卒で行くのもどうなんかなあと
言う事になって、高校へ行きました。その頃の心境は《自分のことは自分で決めないと、
人は自分の望みは叶えてくれへんなあ》という気持ちでした。
そこから、就職して、自営業することになるんです。
20代の頃、飲食業をやりました。飲食店と言っても色々ありますが、
何の飲食ですか?との質問に「ラウンジ」ですと笑いながら、そんなんをやってました。
との返事。「すごいなあ!と鈴木が驚き」「笑い」

 

 そんな仕事をしてましたが、やっぱり夜が見えにくいと言うのが緩やかに
進行しました。そのころは、子供が一人いたんです。子供も同じく網膜色素変性症
だったんです。残念なことに、優性遺伝だったんです。
まあ、自分の事だけだったらいいんだけど、娘もそうだったんです。

 

 子供が小学生になってから、母からは子供がいるのに働くなんてと言われました。
その頃から、視力も低下しまた、自分で始めたラウンジの仕事もできなくなったんです。
そこから、30代はなんにもやる気が起こらないペコンペコンの時期がありました。
30代後半から婦人服の店を親戚がやっていたんで、任されていたりしたんです。
ところが、服の色が分りにくくなってきました。紺色・黒色が分らないんです。
これぐらいだと、色の順番を入れ替えしたりして、覚えておけば、自分が分るように
できたんです。ですが、黄色とピンク色が分らなくなってきたんです。服の仕入れでは、
そのころ、茶色と紫を間違えるとかね。これはかなりきつかったですね。

 

<<ライトハウスへリハビリの経験で消費生活アドバイザーに>>
 あはきの資格を取得して、エステの仕事をやろうと学校に行ったんですが、
もう募集は終わりましたと言われたんです。
平成14年、日本ライトハウスへ38歳で入所「通所」しました。その当時の
ライトハウスは100人ぐらいの訓練生が在籍していました。そこで、知ったのは、
大勢の視覚障害者がいて、自分と同じような境遇の人と出会い、
《自分だけじゃないんや》と始めて感じました。
全盲の人でも遊びに行ったり、お酒を飲みに行ったりして、楽しんでいることを
知りました。その頃仲間の誰もがらくらくホン「ドコモ」を持っていましたが、
かわいくない携帯だったんです。いろいろな便利グッズを使いました。たとえば、
携帯用ルーペなんかは、折りたたんでも、手に持てないやんか。実際使えないですね。
というものが、結構多かったんです。本当に当事者「視覚障害者」の声を聞いて
作ってるの?などと、疑問がわいてきました。

 

 ある全盲女性の話ですが、「私ら、自動販売機で缶コーヒーすら買えない。
小学生以下やろう」と言うんですね。そこで、自動販売機を眺めながら、
「こんなにあっちこっちに自動販売機はあるわけですよね。」近くにはスーパーも
あるわけです。それでも資格障害者は単独で買えないってことはどういう事
なんだろうと、疑問を持ちました。また、視覚障害者になる前から見えにくさを補う
補助具などの情報がほとんどありませんでした。

 

それから、職業訓練部へ行くんですが、竹田さんは何をしたいんですかと指導員から
尋ねられ、「視覚障害に関する情報発進がしたい。それも健常者が楽しんでいるような
もの」と答えました。また、「企業に視覚障害者の意見を伝えたい。」
すると、職業訓練部にいた、指導員が、「竹田さんそれはね、
「消費生活アドバイザー」と言うのが、資格としてあります」と言われました。
「じゃあ私取ります。」と宣言したのが、平成16年ぐらいでした。
とは言っても、なかなか難しい「合格率が17~20%」なんです。

 

 今何をしているかと言うと、視覚障害者の声を届ける為に、企業さんの研究会に
入って、視覚障害者の意見交換する場を設けたりとか、日本ハムのCS「満足度が向上!
顧客満足度」のレポートの見易さのチェックなどして10年になります。

テーマ: 「目指すはスーパーポジティブ!」
パネラー:竹田 幸代 氏 (視覚障害2級)弱視
モットー キラキラが見えなくなっても、自分がキラキラしていよう!
日時: 3月11日午後1時30分から

☆中学1年生のころ、将来失明の可能性がある進行性の疾患であることを告知される。
30歳代後半に障害者手帳を取得。その後、初めてロービジョンケアや福祉と出会う。

・ 消費生活アドバイザー(内閣総理大臣及び経済産業大臣認定)
・ きんきビジョンサポート 代表 ほか

 

テ ー マ : 障害者は不自由ではあるが不幸ではない。
パネラー : 金城豊秀「きんじょうとよひで」氏「全盲」

平成29年11月12日、淡路自由空間倶楽部において金城豊秀氏をお招きし、
【障害者は不自由ではあるが不幸ではない】と題し、定例会を開催しました。

 ただいま紹介いただきました金城豊秀と申します。昭和14年生まれで78歳です。
自動車による事故で腹膜炎を起し、1年間学校を休学しました。
目が悪くなり始めたのは、中学3年の頃でした。昭和29年の頃は皆さん御承知のように
沖縄はまだ、戦争の傷跡が、残っていました。私が生活していたところも、6畳足らずの
所に、7人で暮らしていました。なぜそんな所に住んでいたかと言うと、戦争が終わり
仮住宅に住んでいたんですが、台風で壊れ、行くところがなく、そんな狭い所に7人で
住むことになりました。いつもいざこざがあって、落ち着かない生活だったんです。
父は、母と私に対して、冷めたく接しました。どうしても仲良く暮らしていけないので、
母と私は小学校5年の頃別居して、大変辛い思いをしながら暮らしていました。
 中学3年になった頃、眼底出血を起こし、目が悪くなり始め、このあたりから
人生が狂い始めていったように思います。
 眼底出血を度々起こしたのですが、それでも高校受験は合格しました。
高校2年の時、入院したのをきっかけに、1年間休学しました。
33年に復学通知が来たんですが、この5年間、眼底出血を繰り返すものですから、
勉強する意欲もなくなり、本を読むのも嫌になりました。
 昭和33年、「皆と一緒に旅行に行こう」と誘われ、旅行のコースで飲料水メーカーに
行ったんです。私は初めて見たオートメーションの工場に度肝を抜かれました。
このオートメーションシステムに感動しました。
「もう、学校なんか行かない。この会社で、働きたい」と思いました。
1か月ぐらいすると、この会社から「季節工だが働かないか」と誘いに来てくれた方が
あったんです。高校には退学届を出しました。それは昭和33年3月でした。
朝6時から晩10時まで大変忙しく瓶のかたづけ、製品を積み上げたり、車に載せたり、
帰って来た瓶をトラックから降ろして、洗浄するところへ運んで行ったり、
忙しくて忙しくて、目を休めなくてはならないのに働き過ぎたのか、6月になって
病気が再発したんです。商品を集荷の為伝票を切っていたら、伝票のます目が
ゆらゆら揺れて見えたんです。ビックリして窓越しに外を見ると、目の前の看板が
いびつに見え、その窓の外を工場長が歩いていましたが、その姿が、【く】の字に
見えました。「また、再発?」と思ったとたんにぽろぽろと涙が出ました。
側に居たジムの女性が「どうしたの?あんた泣いてるじゃないの。」と
言われたんですが、その場をしのぐ適当な嘘をついてごまかしました。
 この時が、再発の始まりでした。以前に眼底出血でお世話になった先生の所へ
行きました。医者いわく、「金城君この目は大変ですよ。私の手には負えない。」
と言う重病だと聞かされました。
 本土に行くか、アメリカ陸軍を通じて、ワシントンに行くか。
ワシントンに行くなら、私が手続きしてあげるとまで言ってくれました。
その頃のアメリカは沖縄戦の記憶もあり、恐ろしくて行く気にはなれませんでした。
だんだん目は悪くなっていきました。そのころ沖縄には健康保険制度がなかったんです。
全て実費でしたので、経済的には貧困状態でした。
金がない訳で、母に目が悪くなっていることを、言えなかったんです。やがて、症状が
進行し、母に知られることになりました。そこに遠い親戚が私の目の状態を聞きつけて、
「そんなに大変なら、自分の所の姉さんが大阪から来ているので、一緒に付いて
行かないか。」と誘ってくれました。昭和34年12月にその親戚の方に連れられて、
大阪に来ました。その頃の見える世界は物が歪んで見え、焦点が合わないという
状態でした。その時、短歌で、始めての大阪の印象を次のように読みました。
【秋深く 冬とぞ聞けば 野もあわれか 青葉寂しく 焦がれ去り行くも】

<<新薬の試験台になる>>
 2か月の予定で大阪に来たんですが、金がなくなり、水川眼科医長に、沖縄から
出てきた事情を話しました。すると、医師の方から「新薬の試験台になりませんか?」
との提案がありました。「そうするとここにおれるんですよ」と言う事でした。

この時の心を以下のように短歌にしました。
【この薬 試供品だと指示し 金のいらぬを 説いて勧める》と読みました。ところが、
このスタンと言う薬をのみ始め、10日もしたところで、朝、顔をふきに来てくれた
看護婦さんが、「きゃぁ!きしょく悪い」と叫びました。「何がきしょく悪いんや?」。
看護婦が、蛇の抜け殻みたいになっていると言うんです。顔の皮膚の一片をつまんで
引っ張ると、ぱりぱりと音をたてて顔全体の皮膚がはがれました。顔をふく時に片手で
頭を押さえますが、指先が頭にくいこむんです。担当医にこの事を尋ねると
返答はありませんでした。「金城君、薬止めようね」と言われました。

 1カ月余り様子を見て、これ以上良くならないからと退院しました。
退院後3,4カ月もすると網膜剥離を再発し、視力は衰えはしても、回復することは
ありませんでした。この時の視力は0,01だったんですが、この後30年近く
このままの視力を保つことができたのは担当していただいた先生方のお陰だと
感謝の気持ちを今でも持っています。
 母は丸紅系列の丸紅製材所と言う所で働いていたんです。給料は男性と組んで
同じように働いていても、半分以下だったんです。そこで、丸紅へ抗議に行きました。
母がこの仕事場で、大きな板をかついでいました。頭にタオルを巻いて、
モンペをはいて仕事をしていました。ここでも以下の句を唄いました。
【身の丈を はるかに超えた 木材を かつぎて汗の 母を見るなり】に、
なんともいえない気持ちを感じました。それは親不孝な事だと思ったからです。
母が、何しに来たと聞くので、「会社に給料を上げろと抗議に来た」と言うと、
「それすると私は会社にいられない。」と言われ、私は泣く泣く帰ってきました。
 やがて昭和40年代に入ります。知り合いの方が「あんたいつまでも遊んで
いられないでしょう」と言われ、大正区内にマッサージの治療院を経営されている
水原さんという方がおられて、知り合いの方から、私の了承もなく弟子として
紹介されました。水原先生の紹介でライトハウスに点字の勉強に行きました。
そして、マッサージの資格を取る為に昭和41年に区役所で紹介された
神戸の視力障害者センターへ入所しました。

 それからの人生は、神戸視力障害者センター、 障害者リハビリテーションセンター
在籍中から各地の視障センターの役員や大阪地区の代表者など役職を担当しています。

筆者から・・・今回は金城さんの人生の一部を語っていただきましたが、結婚もされ、
沖縄には自宅を建てて、年数回沖縄に帰られる悠々自適の生活をされています。
沖縄へは最近流行りのLCCのお陰でずいぶん安く帰省されているとのこと。
今回のテーマである《障害者は不自由ではあるが不幸ではない》との文字通り
幸せな人生を過ごしておられます。また、身体の衰えの防止のため、
サプリメントを使用されているとお聞きしました。
いつまでもお元気で活躍されることを願っています。
ありがとうございました。

by 鈴木昭二

9月10日、淡路自由空間倶楽部において森田昇氏をお招きし、

【転機、思った時が始まり】と題して、お話を伺いました。

パネラー: 森田昇 氏「弱視」鍼灸・マッサージ・柔道整復師

 

 みなさんこんにちは。東住吉から来ました森田昇と申します。よろしくお願いします。

鈴木さんからウイズで話してくれないかとの依頼がありました。

人にお話しできるような事はないんですが。・・・・「謙遜だと、鈴木は思っている。」

などの冗談を交えながら、話は始まりました。

 

<<中学校で先生からいじめ?>>

 元々、子供の頃から強度の近視だったんです。

メガネも牛乳瓶の底の様なメガネをかけていましたので、よくからかわれました。

小学校の頃は、近視の事はあまり気にならなかったんですが、中学になると、

ぽつぽつと近視を意識するようになりました。特に体育の剣道の授業の時など、

僕はメガネをつけていますので、防具はつけづらいのです。それに、

対戦相手は「剣道部」を当てられたんです。そりゃあもう、先生を恨みましたよ。

今だにその先生の名前は覚えていますよ。「鈴木」って言いまんねん。「笑い」

 

 クラブはサッカー部に入っていたんです。けど、当時のサッカー部というと、

今のように人気のある、クラブでもなく、注目度の少ないクラブでした。

僕はメガネをかけていたので、ヘディングがしにくいんですね。

でも、練習はしなくてはいけないんで、やるんですけど、ちょっと早めに頭を下げると、

脳天に当たって痛いし、下で受けるとメガネの鼻の目頭の間のメガネ受の部分に

衝撃を受け、痛いんです。そんな大変なこともありましたが、楽しかったです。

生野中学という所に在籍していたんですが、サッカー部の連中と他のクラブの仲間と

大阪城までランニングで往復したものでした。

 

Qーー片道どれぐらいあるんですか?と突然の質問。
Aーー電車の駅で言うと、寺田町→桃谷→鶴橋→玉造→森之宮の往復ですからね。

どれくらいあるんでしょうかね。

 

 その後、高校に進学するんですけど、僕自身は就職が決まっていましたので、

高校進学のつもりはなかったんです。ところが、友達が、全日制高校受験で

失敗したんです。その友人が、「定時制に行こうと思ってんねん。」と誘われて、

生野の大阪府立勝山高等学校の定時制に一緒に行くことになったんです。

これが、その後の人生の大きな「転機」になっているんです。・・・・

「僕、話のタイトル言うの忘れてましたね。」テーマを改めていうと、

「転機・思った時が始まり!」です。転機は人によって違いますし、

大きい小さいもありますから、ひょっとしたらこの場も転機になるかも知れませんね。


 無事高校に合格。同級生というのが40・50歳のおっちゃんなんかが

たくさんいるんです。授業が終わって「お茶でも飲みに行こうか?」、

「いや、子供が待ってるから帰るわ。」こんな感じで普通の高校生とは

ちょっと違うなあと思いました。

 皆、大人で昼間は仕事をしていますから、ちゃんと喫煙室があるんです。

1年生は遠慮して行かなかったんですが、僕は先輩がいましたので、一緒について

喫煙室でタバコを吸っていました。また、今では考えられないんですが、

休みの日などは先生の家に行って酒など一緒に飲んでました。

 

<<コンタクトレンズに感激>>
 この頃から見え方が悪くなってきたんです。夜間照明ではサッカーが

続けられなくなってきたんで、サッカー部も止めました。

 

 高校3年の時、網膜剥離で左目を手術のかいもなく、失明しました。この後、

コンタクトレンズと巡り合ったんです。今まで、何をしても視力が出なかったんですが、

この頃世間に出だした「コンタクトレンズ」を知り、右目に試着しましたら、

「なんやこれは!」と思いました。めちゃめちゃ見えるんですよ。メガネと違い

風呂に入っても曇りませんし、うどんを食べても曇りません。

視力が出たので、高3の終わりぐらいに自動二輪の免許を取りました。

 

<<幸福と同時に不幸が?>>
 唐突だと思いながらも、親父にオートバイを買いたいから

「お金ちょうだい」と言ったんです。なぜか、ポンと10万円をくれたんです。

その当時ナナハン「ホンダCB750」は新車で38万円もし、軽四「ホンダN360」より

高かったんです。年末だったんで、来年早々に陸運局でナナハン登録をしようと

予定してたんですが、年が明けた三日に親父が食道静脈破裂で突然亡くなったんです。

元々酒が好きで飲み過ぎだったんです。兄弟や母親から

「お前暮れに金もうとったなあ」と言われ、10万円は吐き出さされました。
 そこからぼつぼつ貯金してたんです。そしたら、あるオートバイグループと

知り合いになりまして、今度一緒に走ろうやって事になりました。

友達が参加できなくなり、急遽自分が集まりに参加したんです。そいつらは、

出始めのナナハンに乗ってたんです。友達の仲間の一人が免許取り消しになっていて、

当分バイクに乗れないんで、譲渡してくれと頼んだんですが、持ち主は

ナナハンに熱い思いがあり、売ってくれませんでした。
 そこで、ぼちぼち貯金をし、やっとナナハンを買ったんです。あと二日か三日で

納車という時に、仲間の一人が事故をお起して、亡くなったんです。

僕にはこういう嬉しいことと悲しいことが同時に起こる傾向があるように思います。

なんで亡くなったって聞くと、「寝屋川バイパスの欄干を飛び越し、落下事故で

亡くなったそうです。」そんなこともあるんやなあと思いました。

購入したナナハンで走りまくるんですがね。今のように暴走族と違い、少数で競走の

しあいなんです。ある日、鈴鹿サーキットへ行った帰り、あるグループと競走に

なったんです。なぜか、サーキットの帰りは、テンションが上がっているのか、相手が

あれば、競走になるんです。相手のチームは50台位いたんです。こちらは10台足らず

でした。ところが、相手のグループをバラバラにしてしまったんです。
ROMとチーム名はクレージーな名前だと有名になり、ROMを見たら相手にするなと

回覧が回されたんです。そんな仲間と今だに付き合っています。

 

<<アルサロの元祖、夢の国で働く>>

 当時アルサロの元祖と言われる「夢の国」という店がありまして、そこで、

アルバイトを始めたんです。喫茶店の時給が380円のころ、僕は600円もらって

たんです。で、昼間も仕事をしていますから、その頃は一番裕福でしたね。「笑い」
 だって、昼夜働いて、使う間がないんですから。夢の国にはステージがあって、

生バンドが入っていたんです。バンドのドラマーが歌手の瀬川瑛子の夫なんです。

 

<<夢のスカG購入>>
 そんなこんなで、会社を辞めることになりました。辞めるまで、暴走行為を

やってたんですが、ある人に「車乗れへんのか?」と言われ、車やったら

「スカGしか乗れへん」と言ってたんです。仕事していると、朱色のスカGが来たんです。

「どや、これ!」と言うんで、「よっしゃ、買うた!」の乗りで、現金で買いました。

その時は自分の好きだったスカGは売ってなくて、ケンとメリーのスカイラインの

時代でした。なので、中古車でした。

 

Qーー 警察に捕まることはなかったんですか?
Aーー オートバイの時、捕まりました。

 

<<24歳の頃から、鶴橋卸売り市場の鰻店に勤務>>
 話を聞いていると、森田さんはいろんな職業についておられました

。一番長く勤めたのが、うなぎ屋さんでの15年間の勤務だったそうです。毎日毎日

うなぎをさばいていたそうで、器用な一面を感じさせられました。

ここでの勤務があり、障害「2級」を持ってから厚生年金障害年金を受給されています。

 

<<平成7年大阪府立盲学校理療科入学、平成13年柔整科卒業。同年開業。>>
 盲学校に入学で、鍼灸マッサージ科および、柔道整復士取得の課程に進学できたのも、

あの友達に誘われた定時制高校を卒業した資格があったことが、大変役にたったと回想。

これも、一つの「転機」だと思っている様子でした。

 

テーマ: サロン活動の歩みを振り返る。
パネラー: 窪田新一 氏

日時: 5月8日 午後1時半から4時ごろまで
場所: 淡路自由空間倶楽部 大阪市東淀川区淡路5丁目10番7号
会費 なし
お問い合わせ 090-2598-9528 鈴木まで

☆「サロン活動23年間ありがとうございました。」
これからは、地域活動で人生の「生旬」(せいしゅん)を楽しく。

3月12日、淡路自由空間倶楽部において、【パラトライアスロンチャレンジャー】と題し、白江淑浩「しらえとしひろ」氏「弱視」をお迎えし、お話を伺いました。
こんにちは、白江と申します。

☆8歳の時に緑内障と診断を受け、両眼を手術。
☆ 18歳(高校3年)で右眼を失明
☆ 38歳頃から更に人の顔の認識が難しくなった。
☆ 1999年に国立神戸視力障碍センターにに入所し、 現在は、左眼の弱視を保ちつつ、鍼灸師として開業。

<<子供のころの話>>
こんにちは、今回鈴木さんからお話をいただきまして、トライアスロンをしていたことがありまして、「今はちょっとお休みしています」ですが、それについて話してほしいと言う事で来させていただきました。

白江淑浩「としひろ」と申します。1958年生まれで、58歳。川崎市で生まれ育ちました。8歳の時に眼科で緑内症という診断を受け、両目を手術しました。その時の視力が、右が0、15で左目が0,3だったと記憶しております。当初もう少し早い時期からよく見えてなかったんですが、小学校の1年のころは、「この子はなかなか字が読める様にならない子だ」と親から言われて、僕は見えあないんだと主張してたんですが。「笑い」小学3年にもなりますと、さすがに、本当に見えてないんだとなりまして、すぐ手術をして、1ヵ月半ぐらいの入院。半年ぐらいは体育はしない様にとは、目に圧力がかからないようにとのことでした。18歳の時に右目の視力を失いました「高校三年。この時、感じたのはこれからどうなって行くのかなあ?右目の視力を失くした時に左目もかなり視力を失ったんです。」。今は少し回復しています。現在の視力は右が0で左目が0,03ぐらいといいうところです。人の顔を認識できるのは30~50センチぐらいです。外で会って、分ると言うのは難しいです。他の情報で分ったりするんですけど。そういった状態で、当時はタバコ屋の店番ならできるけどお金がちゃんと見えるかなあという。などと考えたこともありましたね。

<<ボランティア活動を始める>>
その後、社会に役に立つようなこともしなければと思いまして、18歳ぐらいからボランティア活動を始めました。ユースホステルヘルパーの奉仕活動のチャンスに恵まれましたり、色々過ごしてきました。

<<トライアスロン>>
今回はトライアスロンの話を中心でお話したいと思います。トライアスロンとは、3種類の協議をして、順位を決める協議です。一つはスイム「泳ぎ」・バイク「自転車」・ラン「走り」この三つの競技となっております。トライアスロンには色々カテゴリーがありまして、日本でも小学生一年生から75歳あるいは80歳もあるかも知れませんが…。そういう年代別で公式戦では争うんです。もちろん、小学生だと距離は短くなっていると思います。皆さんがよくイメージされるのは距離も長いアイアンマンレースというもので、バイクが180キロメートル・ランが42、195キロ。一番初めにスイム約3,8キロなどいろんな距離があります。そういったなかで、すごく楽しめているスポーツでこれからどんどんジュニアの育成もしていく競技だと思っています。

プロとは違う競争ができると言う事ですね。海外ではかなり有名で日本代表という人もおられます。75歳以上で国内で優秀な成績の人はジャパンの代表にもなります。
でもそんな中の戦いで、年代別で日本代表というのがありまして、75歳以上で日本国内で優秀な人は国際大会でジャパン野代表で、プロとは違う戦いができると言うことですね。

オリンピックに出る人は皆プロの選手なんですけどプロの競技距離を言うと泳ぐ距離が1500メートルバイクが40キロランが10キロ。世界最高峰の選手の記録は約2時間ぐらいの競技で、スピードもものすごいものです。それがオリンピックディスタンス「距離」ですね。プロの世界選も各地で7選とか8選行なわれています。代替それが基準でたまにスプリントと言ってその半分の距離でプロもなん専科行なっています。そうすると1時間ぐらいの競技になるんですけども、更にスピードアップするんです。
どっちがいいとかではないんですけど。それはそれのスピードかんとか受給力が求められる競技です。そのなかで、僕は視覚障害者でありますので、パラトライアスロンという競技に出場しました。パラトライアスロンにはカテゴリーがありまして、両下肢が使えない方と蚊、視覚障害の方だとかいろいろなカテゴリーがありまして・・・
ここでQ:聴覚派ないんですか?
A:聴覚障害者はパラには入らないんです。身体の能力は健常者とそん色ないんで・・・・。ただその人達は一般の競技に参加します。パラトライアスロン二なると道具が変わってきます。たとえば、視覚障害者の場合は一人で泳いだり、一人で走ったり、自転車に乗ったりできませんので、ガイドという人と共同で行ないます。自転車はタンデムという二人乗りの自転車で、前に乗るガイドをパイロット、後ろに乗る視覚障害者をストーカーと言います。泳ぐときには、伴泳ロープで、延び縮みしないもの。この基準は変ることもあるんですが、それを繋いで泳ぎます。大会によっては異なるんですが、海とか湖と蚊池などが多く、流されることもあるので、かなりしっかりしたロープで、それを頼りに泳ぎます。水泳の場合、伴泳者が前を泳ぐこともあります。前を泳いだからと言って早くなるわけではなく、場あらんすが崩ますので、となりで同じ速度で泳いでくれるのがいいかなあと思います。ランにおいては、伴走ロープを
持って「ひもの長さが1メートル以内」と決められています。通常日本では、それを輪っかにして使っています。今日持ってきたこの輪っ蚊を使います。

等々多岐にわたって話しに花が咲きました。

なお、獲得したアジア大会の金メダル、日本国内大会のメダルなど写真で紹介しております。

 

 


☆パラトライアスロンに53歳でチャレンジしてみたら、
日本代表としてアジア大会で金メダル。
ロンドンでのグランドファイナルで14位