ウイズ東淀川11月レポート | ウイズ東淀川のブログ

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平成6年7月から、東淀川区において結成された、コミニケーション・ボランティア・グループです。
奇数月の第二日曜を定例会とし、【共生】を理念として、共に語り・共に学び・共に遊んでみませんか「をキャッチフレーズに、誰もが集える」場を提供しています。

テ ー マ : 障害者は不自由ではあるが不幸ではない。
パネラー : 金城豊秀「きんじょうとよひで」氏「全盲」

平成29年11月12日、淡路自由空間倶楽部において金城豊秀氏をお招きし、
【障害者は不自由ではあるが不幸ではない】と題し、定例会を開催しました。

 ただいま紹介いただきました金城豊秀と申します。昭和14年生まれで78歳です。
自動車による事故で腹膜炎を起し、1年間学校を休学しました。
目が悪くなり始めたのは、中学3年の頃でした。昭和29年の頃は皆さん御承知のように
沖縄はまだ、戦争の傷跡が、残っていました。私が生活していたところも、6畳足らずの
所に、7人で暮らしていました。なぜそんな所に住んでいたかと言うと、戦争が終わり
仮住宅に住んでいたんですが、台風で壊れ、行くところがなく、そんな狭い所に7人で
住むことになりました。いつもいざこざがあって、落ち着かない生活だったんです。
父は、母と私に対して、冷めたく接しました。どうしても仲良く暮らしていけないので、
母と私は小学校5年の頃別居して、大変辛い思いをしながら暮らしていました。
 中学3年になった頃、眼底出血を起こし、目が悪くなり始め、このあたりから
人生が狂い始めていったように思います。
 眼底出血を度々起こしたのですが、それでも高校受験は合格しました。
高校2年の時、入院したのをきっかけに、1年間休学しました。
33年に復学通知が来たんですが、この5年間、眼底出血を繰り返すものですから、
勉強する意欲もなくなり、本を読むのも嫌になりました。
 昭和33年、「皆と一緒に旅行に行こう」と誘われ、旅行のコースで飲料水メーカーに
行ったんです。私は初めて見たオートメーションの工場に度肝を抜かれました。
このオートメーションシステムに感動しました。
「もう、学校なんか行かない。この会社で、働きたい」と思いました。
1か月ぐらいすると、この会社から「季節工だが働かないか」と誘いに来てくれた方が
あったんです。高校には退学届を出しました。それは昭和33年3月でした。
朝6時から晩10時まで大変忙しく瓶のかたづけ、製品を積み上げたり、車に載せたり、
帰って来た瓶をトラックから降ろして、洗浄するところへ運んで行ったり、
忙しくて忙しくて、目を休めなくてはならないのに働き過ぎたのか、6月になって
病気が再発したんです。商品を集荷の為伝票を切っていたら、伝票のます目が
ゆらゆら揺れて見えたんです。ビックリして窓越しに外を見ると、目の前の看板が
いびつに見え、その窓の外を工場長が歩いていましたが、その姿が、【く】の字に
見えました。「また、再発?」と思ったとたんにぽろぽろと涙が出ました。
側に居たジムの女性が「どうしたの?あんた泣いてるじゃないの。」と
言われたんですが、その場をしのぐ適当な嘘をついてごまかしました。
 この時が、再発の始まりでした。以前に眼底出血でお世話になった先生の所へ
行きました。医者いわく、「金城君この目は大変ですよ。私の手には負えない。」
と言う重病だと聞かされました。
 本土に行くか、アメリカ陸軍を通じて、ワシントンに行くか。
ワシントンに行くなら、私が手続きしてあげるとまで言ってくれました。
その頃のアメリカは沖縄戦の記憶もあり、恐ろしくて行く気にはなれませんでした。
だんだん目は悪くなっていきました。そのころ沖縄には健康保険制度がなかったんです。
全て実費でしたので、経済的には貧困状態でした。
金がない訳で、母に目が悪くなっていることを、言えなかったんです。やがて、症状が
進行し、母に知られることになりました。そこに遠い親戚が私の目の状態を聞きつけて、
「そんなに大変なら、自分の所の姉さんが大阪から来ているので、一緒に付いて
行かないか。」と誘ってくれました。昭和34年12月にその親戚の方に連れられて、
大阪に来ました。その頃の見える世界は物が歪んで見え、焦点が合わないという
状態でした。その時、短歌で、始めての大阪の印象を次のように読みました。
【秋深く 冬とぞ聞けば 野もあわれか 青葉寂しく 焦がれ去り行くも】

<<新薬の試験台になる>>
 2か月の予定で大阪に来たんですが、金がなくなり、水川眼科医長に、沖縄から
出てきた事情を話しました。すると、医師の方から「新薬の試験台になりませんか?」
との提案がありました。「そうするとここにおれるんですよ」と言う事でした。

この時の心を以下のように短歌にしました。
【この薬 試供品だと指示し 金のいらぬを 説いて勧める》と読みました。ところが、
このスタンと言う薬をのみ始め、10日もしたところで、朝、顔をふきに来てくれた
看護婦さんが、「きゃぁ!きしょく悪い」と叫びました。「何がきしょく悪いんや?」。
看護婦が、蛇の抜け殻みたいになっていると言うんです。顔の皮膚の一片をつまんで
引っ張ると、ぱりぱりと音をたてて顔全体の皮膚がはがれました。顔をふく時に片手で
頭を押さえますが、指先が頭にくいこむんです。担当医にこの事を尋ねると
返答はありませんでした。「金城君、薬止めようね」と言われました。

 1カ月余り様子を見て、これ以上良くならないからと退院しました。
退院後3,4カ月もすると網膜剥離を再発し、視力は衰えはしても、回復することは
ありませんでした。この時の視力は0,01だったんですが、この後30年近く
このままの視力を保つことができたのは担当していただいた先生方のお陰だと
感謝の気持ちを今でも持っています。
 母は丸紅系列の丸紅製材所と言う所で働いていたんです。給料は男性と組んで
同じように働いていても、半分以下だったんです。そこで、丸紅へ抗議に行きました。
母がこの仕事場で、大きな板をかついでいました。頭にタオルを巻いて、
モンペをはいて仕事をしていました。ここでも以下の句を唄いました。
【身の丈を はるかに超えた 木材を かつぎて汗の 母を見るなり】に、
なんともいえない気持ちを感じました。それは親不孝な事だと思ったからです。
母が、何しに来たと聞くので、「会社に給料を上げろと抗議に来た」と言うと、
「それすると私は会社にいられない。」と言われ、私は泣く泣く帰ってきました。
 やがて昭和40年代に入ります。知り合いの方が「あんたいつまでも遊んで
いられないでしょう」と言われ、大正区内にマッサージの治療院を経営されている
水原さんという方がおられて、知り合いの方から、私の了承もなく弟子として
紹介されました。水原先生の紹介でライトハウスに点字の勉強に行きました。
そして、マッサージの資格を取る為に昭和41年に区役所で紹介された
神戸の視力障害者センターへ入所しました。

 それからの人生は、神戸視力障害者センター、 障害者リハビリテーションセンター
在籍中から各地の視障センターの役員や大阪地区の代表者など役職を担当しています。

筆者から・・・今回は金城さんの人生の一部を語っていただきましたが、結婚もされ、
沖縄には自宅を建てて、年数回沖縄に帰られる悠々自適の生活をされています。
沖縄へは最近流行りのLCCのお陰でずいぶん安く帰省されているとのこと。
今回のテーマである《障害者は不自由ではあるが不幸ではない》との文字通り
幸せな人生を過ごしておられます。また、身体の衰えの防止のため、
サプリメントを使用されているとお聞きしました。
いつまでもお元気で活躍されることを願っています。
ありがとうございました。

by 鈴木昭二