相変わらずメディアの印象操作は酷いものがある。下記は石破政権発足時の記事です。株が上昇したように見せかけていますが、これは明らかなフェイクニュースです。上昇したのは高市が首相になりそうだと期待感があったからです。石破が勝った瞬間に急落しました。
円高に触れたのは、今後の日本に期待したからではなく、単純に石破が示した政策によるものです。金融緩和を否定し、金利を上げていくことや金融所得課税や法人税の増税を主張していたので円高に触れただけのこと。今は利上げを否定したので、円安に触れています。
急遽、脱税裏金議員を非公認にしたのも、選挙で負けると思っての行動です。石破は全く信用することができない。その時によって発言する内容がコロコロ変わる人間をどうやって信用するというのか。この人は自民党内でも浮いた存在になると思います。
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前回の続きから
妙好人列伝(みょうこうにん)
妙好人とは基本的に真実の教えに目覚め、念仏の生活を送った人のことを指しますが、ただの善人を妙好人と呼ぶこともある。
その為、妙好人は浄土真宗の僧侶から軽視されることがある。
「往生浄土の信心獲得が軽視されて、感謝やサンゲ、報恩といった生活が重視されるのは、真宗にとっては本末転倒で、重大なミスである」
参考書籍
華光誌
掲載号56-4号 平成9年10月発行
著者
増井 信 師
また増井信師は
「信に目覚めたとか、求道の悩みといった点は問題にならない。むしろ極貧や病気、または聴聞が困難などの悪状況の中で、常に報恩感謝の念を忘れない人達とか、善良で正直な模範的な人格者を讃仰したものが多いわけです。称名念仏を怠らず、悪口もいわぬ善良温和の正直者が、妙好人と称讃されている」
とも言っている。妙好人は立派な人であるのは否定しないが、真宗の教えからはズレていると指摘しています。念仏すら行っていない人も中にはいるようです。
一般人からすると、世俗から離れて念仏修行を中心とした生活を送る人たちよりも、妙好人のように世俗に生きる人たちの方が親しみは湧くのではないかと思います。
一般生活とは掛け離れた念仏を中心とした生活を送る人たちこそ素晴らしい存在なのだ。と言われても、大抵の人は納得しないと思う。
浄土真宗は念仏に拘ります。
讃岐の庄松(しょうま)
「護法主様(興正寺本寂上人)が来た時、「後生の覚悟は良いか?」と庄松が護法主様に聞く。護法主様は『私には意見をしてくれる者はいない。後生の一大事を知っているのか』と庄松に聞いたところ、庄松は『私には分からない』と仏を指差した。護法主様は『我らがはからうことではなかった』と涙した」
「亡くなった時には墓を立てると言った村人に対して、庄松は『わしは石の下にはおらんぞ』と言い、僧侶が感銘を受けた」
私利私欲を捨てて仏に身を委ねて生きている庄松の話です。この感覚は分からないでもないが、この考え方を持って生活していると生活レベルをかなり落とさなくてはならなくなる。貧乏生活が当たり前の時代で仏に縋るしかなかった時代でも、この生き方ができる人が少なかったのであれば、現代ではもっとその数は少なくなるはずです。
何が起きても仏に身を預ける生き方は、流れに逆らわずに生活していれば良いわけですが、この感覚は少し掴めてきた。流れに乗っていると意外と上手くいくものです。
賀古(かこ)の教信
「興福寺の教信の話。唯識と因明を講ずる学僧。『出家したのは仏様にお会いするためだ』と言って寺を飛び出していく。弟子たちが探し出して、数十年後に再会する。教信は僧でもなく、俗でもなく、昔より仏様が身近に思えるようになった寂れた生活をしており、妻と子がいたこともあって、弟子たちは堕落していると感じた。ある日、弟子が教信の夢を見る。弟子が駆けつけた時、教信は亡くなっていた」
弟子が見た夢の中で教信が「ようやく仏様に出会えることになりそうだ」と言ったそうです。
この仏は実在する仏ではなく、浄土真宗では真如と呼ばれるものです。個人的には宇宙みたいなものと認識しています。空(くう)も似たようなものとして捉えている。
寂れた生活をすることによって仏を身近に感じるようになった教信は亡くなる前に「これで仏に会えそうだ」と口にしている。これは生きている時はどうしても仏に会うことができなかったということを意味します。生きている間は欲を捨てることができなかったのでしょう。
因みに教信から400年後に生まれた親鸞は「私は賀古の教信様と同じ道を歩いている」と言葉を残しています。
浅原才市(さいち)
「詩を読むのが趣味。僧侶に知られるようになり、ついには禅宗の大家鈴木大拙師によって世界に知られることとなった。肖像画は角を2本付け足してもらった」
「ええなあ世界虚空がみなほとけ わしのなか南無阿弥陀」と言った人です。
この世は空(くう)なので、この世界も自分自身も何もかもが仏です。
大和の清九郎
「酒に溺れ、妻子を大事にしなかった。この世の仕組みに対する腹立たしさを抱えて荒れる毎日を送る。妻を亡くしたことをきっかけに寺で仏法を聞くようになる。娘に『若い頃の自分にそっくりなヤクザ者(久六)と一緒になれ』と言って結婚させる。辛い日々を清九郎と娘は送るが、やがて久六も改心する」
妻を亡くした後、寂しさから半狂乱となり、それを見かけた母親が清九郎を寺に連れて行ったようで、清九郎は仏法を聞くことによって改心した。常に阿弥陀が見てくれているのだと感じるようになった瞬間があったからです。
法話を聞いていても、仏教に触れていても知識としては理解できたとしても、体感としては何のことやらさっぱり分からないが、ある日突然、道が開ける時が来るものです。所謂、気付きというもの。
この人の墓は現存しており、清九郎の研究者もいるほど妙好人としては有名な人です。
薩摩の千代
「薩摩は江戸期から明治9年に至るまで浄土真宗の禁制の地だった。かくれ念仏に対する取り締まりは苛烈を極めており、千代は禁制を破って本願寺に参詣していたことで捉えられた。凛とした態度に奉行は心を打たれ、何とかして助けようとしたが、千代は改心を断り続ける。処刑の日、禁制の念仏が刑場の至る所から湧き起こり、奉行は涙を流しながら念仏を聞き続けた」
隠れキリシタンを虐殺するだけではなく、薩摩の人たちは仏教徒に対しても同じことを行っていた。廃仏毀釈では仏像や宝物、建物などを破壊し、経典を燃やすなど常軌の逸した行動を取ったことは多くの人たちに知られているが、仏教徒たちが殺害されたことはあまり知られていない。
因みに廃仏毀釈が行われたのは明治時代初期です。千代が生きていたのは江戸時代。このことからも薩摩は元々から仏教に対して批判的な目を持っていたことが分かります。討幕に関しては吉田松陰などの影響が強いとされていますが、長州も薩摩もベースとして仏教を批判的に捉える考え方を持っていた。突発的に現れた思想ではありません。現代でも右寄りの思想の人は神道に傾倒し、仏教を批判的に捉える傾向にある。
個人的には仏教も神道も根幹を成すものは大した変わらないだろうと思っています。
千代が改心を断った時に奉行人に「阿弥陀様からいただいたお念仏であるから、自分の意思では念仏を放棄できない」と発言したと伝わっています。
浄土真宗では念仏を称えるのは、自力によるものではなく、阿弥陀の本願力(阿弥陀の慈悲)によるものとされます。阿弥陀のはたらきかけ(他力)によって念仏を称えているので、念仏を捨てることはできないのです。
因幡の源左
「天保十三年より昭和五年の八十九年の一生を念仏の中、生き抜いた。一灯園の主、西田天香師が来た時、西田は『堪忍』について話す。源左は「おらの話はとっても悪いもんでござんす。おらはいつも皆に堪忍してもろうておるがやぁ」と言った。西田は源左との出会いを非常に喜ばれた」
雨が降った時に僧侶が「大変ですなぁ」と言えば、「鼻が下についているから、ありがたい」と話すなど、源左は何に対しても感謝の気持ちをもっていた。口癖も「ようこそ、ようこそ(ありがとうの意味)」だったようです。
源左が有名になったのは、新聞に掲載されたからです。比較的、近年の人で写真も残っています。
村に泥棒が来た時、その泥棒に対して延々と諭しながら歩いたことで、泥棒は盗むことができなかった。泥棒がそのことを警察に話したことで新聞に掲載されるに至っています。源左は納税の推進や祖父母の養育などでも活躍し、緑綬褒章を受けてもいる。
どんな目に遭っても肯定的に捉え、感謝の気持ちを忘れない。この境地に達するのは至難の業です。
親鸞聖人の時代
「1200年代の仏教はバラモン教の呪術性と人間差別に真っ向から反対していた。しかしバラモン教がヒンズー教として衣替えした頃から、仏教もヒンズー教と変わらない姿になった。1203年にイスラム教徒が「アッラー神を信じぬ輩は我慢ならぬ」として、インド仏教の最後の拠点であるヴィクラマシラー寺が崩壊する。インド仏教の終焉。同時期にキリスト教も勢力を拡大。モンゴルではジンギスカンが統一する」
1201年に親鸞が比叡山から降りてくる。この時、親鸞は29歳。
幼い頃に貴族社会が平家によって滅ぼされて武家社会となり、9歳で出家して比叡山に行くと、滅びたはずの貴族社会が存在していた。俗世間以上の俗さを持った場所だった。
比叡山で親鸞は苦行に明け暮れるが、そこで見たのは自分の中の地獄という煩悩であり、比叡山から降りて六角堂へ籠っても答えは見えてこなかった。ある日、源空の名を耳にして会いに行く。
※源空聖人とは法然房のことです。
法然は「私の申す念仏は仏を観るという意味の観念の念仏ではない。また仏を憶うという意味の億念の念仏でもない。称えるという意味の称名念仏。これが私の申す念仏である」と説くが、親鸞は納得できなかった。
法然
「戒・定・慧の三学に全てが収まる。戒を納め、禅定身につけて煩悩を断ち切り、真実の智慧によって悟りを得る。これが仏道だ」
法然も親鸞同様に、どれだけ学業を積んで修行をしても煩悩に囚われて苦しんだ過去を持っていた。その時に善導大師の「観経疏」(かんぎょうしょ) の一文に出会う。
「一心に弥陀の名号を専念して行住坐臥(ぎょうじゅうざが) に時節の久近(くごん)を問わず念々に捨てざるものは、これを正定の業と名づく。かの仏願に順ずるがゆえに」
↓
ただひたすらに念仏を申す者は、既に真実に出会う約束のできた者。そういう者こそ阿弥陀仏の願いにかなっている。
という意味です。浄土宗と浄土真宗が念仏に拘るのは、法然と親鸞の考え方を引き継いでいるからです。
思慮分別や善悪の判断など遥かに超えて、いつでもどこでも私にはたらきかけている。三学を納められなかった自分ではあるが、私は既に真実の中にいる。と法然が話す。
親鸞が感銘を受けて、この事を教行信証に記す。
遥か仏陀へ
この漫画を描いた故人の自伝です。
「この世は諸行無常であり、全てのものが移ろいでいく。これが仏教の根本だ」
といったことが描いてありました。
みかんの花
「小学四年の時に父が亡くなり、子ども2人を育てるだけの毎日が始まる。母親は生きることが辛いと思っていた頃、家に僧侶が訪れる。僧侶は母親に因果応報を説く」
「色々な原因を、この今作っている」
「阿弥陀経に具会一処という言葉がある。倶に一処(真実)に会う」
真実の世界で皆がまた出会うという意味です。
「死んだ先のことなんか用はない。心配しなければいけないのは、この今だ」
↓
「僧侶から話を聞いた母親は夫と死別しても、子どもたちが成長して離れて行っても別れることのない世界があることを知った」
流れに身を委ねるといった感覚を掴めてきたとは言っても、まだ朧げながら見えてきた程度でしかない。しかし仏教の良さが少し分かったように思えます。