第十六章・日本語は神の教えの神言葉から引用

私達(魂)にとって一番大事なことは、艮金神や良心神論にあるのではありません。貴方の魂(心)はこの世で何を学んだのかにあります。もし、主の神が私を拝まないと許さないと云う神であれば、悪神の反乱ぐらいでは最初から引退などなされなかったでしょう。こんな不思議な仕組みもなされていないはずなのです。いつでも悪神等は掃除出来たでしょう。

 一本の樹。大地に根を出して芽を出す。やがて枝葉を造り幹も根元も太くなります。それで、初めて樹となるのです。根元となる神があり、幹となる神、そして枝葉として栄える神達があり常葉堅葉に栄えられる。それぞれに役割があるのです。

 悪に走った者達には、こうした意味が解らなかったはずです。根元(下)で支えてくれる者があって自分は栄えられる。主の神は自らが退くで犠牲を払われた。だが、誰もそうした教えを説かなかった。根元たる神など無(亡)いものとばかり思っていた。

 私は大本教神諭、九つ花に咲く一輪の言霊の経綸がお釈迦様の悟りの良心神のラ神論であることは早い段階で行き着きました。
 しかし、私が旧約聖書の神と名乗る神から言われたことは、社会の底辺で[人の心の在り方]について学びなさいでした。
 どんな立派な教えでも、教えを聞く者の[心の在り方]が間違っていたならばどうにもならないのです。神々は貴方の教えを聞かなければ行けないと言いながらも、どの神も聞く耳など持たれなかっった。

一時期、テレビで大活躍された女性霊能者が、貴方のお父さんがお母さんが、飼い犬や飼い猫が貴方を守護しておられる式のことばかりを云っておられました。守護している守っていると云うだけな 
らば、蛇や狐でも信仰すれば守ってくれます。こうした存在は単に守護神とか守護霊や背後霊と呼 
ばれる存在にしかすぎないのです。 

 私達の肉体に父と母と云う肉体の両親があるように、私達の魂にも父たる魂や母たる魂が存在します。こうした存在を御親神と云います。また、本守護神とも呼んでいるのです。 

自分の魂は誰から生まれたのか? 

 しかし、守護霊と呼ばれる様な存在とは違って、我が子たる魂を千尋の谷底に落としておいて、魂に逢いたくば谷底から自分で這い上がって来い式の教育しかしないのです。 

 獅子は我が子を千尋の谷底に落とす。魂は甘やかしたらダメになる。我が子の為には成らず。 師は常に厳しい。 

肉体に両親が在るように、魂にも親たる神が在る 師(獅)たる親は、我が子が這い上がるのを待つ親(木立見)の字は、木の上に立って子を見守る 

 こうしたことは、有能で正しい霊能者の方ならば云われるかと思います。 

 我が宗教に入信されれば天国に行ける。そんな宗教は信じない方がよいでしょう。案内して 
れるのは地獄界。その宗教の御祭神は、自分の御親神ではないのです。神を求めるのならば、自分の御親神に近づくことを考えるべきです。 

 日本の神達は、私に向かって貴方の本守護神は[国常立尊]様ですよと教えてくれました。だが、 
神々も国常立尊様を見たのではないのです。国常立尊様の御使者神と呼ばれる存在が私の背後 
にあるから云うだけに過ぎません。 

 命あるものは、自分の魂の御親神。その御親神の御親神と辿って行けば、最終的には誰もが 国常立尊様と呼ばれる神に行き着くことになります。何故ならば、森羅万象ことごとく創造神が創 
られた存在であって、創造神から出ていないものはないからです。だからこそ、私達の魂の中には 
良心(両親)神と呼ばれる存在があるのです。 

終わりが近づけば霊懸かりが多くなるようです。
それに伴って霊的な騙しと憑依が多くなるようなので、
自分が騙されているのではないか、いいように使われているのではないかと常に自問自答する必要があります。
霊感直感は危ないというのですが、仮に霊感体質の人ならば、そうでない人よりも魂の磨きと学び、智恵がより求められます。
そうでなければそういった世界と接点が多い分、智恵がなければ良くない霊にそそのかされて一生が終わる可能性があるからです。



霊的詐欺を抜きにしても、副守護神や動物霊の憑依のように良くない霊にいいように使われていれば、なかなか自分では気付かないものですから、常に自分を省みる必要があります。また、現実の詐欺師が責任を取らないように、良くない霊に騙された側はただ哀れな立場に置かされるわけです。
また誰しもが、憑依を認めたくない心理があります。

騙されているのかもしれない。
自分の善意、信念、愛で動いているつもりが、本当は良くない霊にいいように
使われているのかもしれない。
妄想が激しいのは狐狸のしわざ。

というわけで良くない霊に騙されているかもしれない運転、使われているかもしれない運転です。

霊的な事象は騙しが多いと警告されています。
霊的存在からすれば、霊的な事象を通して人間なんぞはいくらでも騙そうと思えば
騙せるため、霊感直感だけでは危ないのです。

故に奇魂=知恵を働かせなければなりません。理性と常識です。

またどれだけ霊感があろうと、直感が鋭かろうと最後の判定は良心神であり
米の教えは【他を救いて世根】となれです。
"人は直霊を宿した霊止"として、その良心の働きを発揮するべきであり、
最後の審判に見られるのは良心神です。
○○神が懸かったからどうこうでもありません。
霊能力があるからどうこうでもありません。

人は霊止としての役目があるのであって、他の霊的存在がどうこういうのは
あまり必要がありません。
己が人としてどうだったかの話です。
己が人として生まれてきて何をしたのかという問題です。


人に内在する良心神は、自己の魂を磨かないと効果がありません。
他を救いて世根となれです。
その時、例え天の岩戸が開けられても、天の岩戸の光に耐えられることが出来るのです。


蛇霊曰く「この世の終わりの時節には、人に懸かって暴れに暴れてやる。」
断言は致しませんが、この世の終わりは今かもしれません。

これだけスピリチュアルで、自分にマリア霊が、
天使長ミカエル霊が、カブリエル霊が降りて来るの大流行は、
世の終わりの時が近づいて来ているしるしなのです。
私が子供の頃に臨まれた旧約聖書の神と名乗る声が、
【この世の終わりの時は、この世をよく見ていれば解ると】言われた意味、
ようやく理解いたしました。

私達に残されている「この世の時間」は後わずかであり、
遊んでいればその時をムダにするのです。
永遠のみろく世の地位は、今生の終わりの時の魂の点数で決まるからです。
ですから、魂の点数をかさ上げしておくことは「金」の価値を持つのです。
それは一時の地位ではなくて、永遠の地位です。輪廻転生が終わるからです。

悔い改めが早ければ早いほど、金を積めるのです。

唯一なる神。創造神信仰に切り替わると、この魂の点数がぐっと上がります。
それは【良心神】が持つ特性なのです。
神は愛だ!では、魂の点数がさほど上がらないのです。
魂に対する「愛(幸魂)」の点数分野は少ない為に魂の総合点に反映されないのです。

愛ではなくて、【良心神】を知るのが第一天国界への道
お釈迦様の本当の悟り、人には良心と呼ばれる神が内在する

第一天国界に進むには「如来の知恵」と言われる
「奇魂」の働きがないと、良心神の点数がどうしても上がって来ないのです。


旧約聖書の神と名乗る神のお言葉をお借りします。

人の一生とは長いようで短い。
人がこの世に居る時間とは永遠性の命を持つ魂の世界から見ると
修学旅行に出たような僅かな時間にしか過ぎない。
その修学の場で多くの魂と触れ合って学んで行く。魂の縁を結ぶ。
そして、この世を去って魂の故郷である魂の世界にと帰って来る。
魂の世界に帰って来てもこの世で出会った魂と再び巡り会えるとは限らない。
この世では魂は旅人と同じである。人は僅かな修学の時間で何もかも学べるものではない。
全ての喜び全ての悲しみ全ての苦しみを体験することなどは出来ない。
自分が学べなかった体験も他の者が学んでいたりする。
他の者が学んだこと他の者が犯した過ちなどを知り全て
自分の学びの糧としなければいけない。他の人の体験を否定してはいけない。
魂を磨く為に出た僅かな時間の修学の場で修学することを忘れて遊び回ったり
刹那心に溺れ自分の魂を汚したり永遠性の命を持つ魂を腐らせてはいけない。
魂を潰したり腐らせたならば、その魂はいったい何の為にこの世に生まれ出たのかとなる。
生まれ出た価値がない。それならば最初から生まれ出ない方がよい。
人の一生においてはいろんな出来事が起きる。
それは映画の中の一コマのようなものにしか過ぎない。
過ぎ去れば思い出である。その一コマ一コマの場面に縛られてはいけない。
それを持って人を云々してもいけない。
人はその一生を終えた時
【魂がこの世で何を学んできたかが問われる。それが一番重要なことである】


生物の一生は短いが輪廻転生は終わりなく、その回数分の人生を通して多く学ぶことは
魂の渇望であります。
魂の渇望は経験を積むことであり、善悪快苦愛憎を含んださまざまな経験を積むでしょう。
今生の経験・立場は、個人の意思や欲望が望んで呼び寄せた結果ではなく、
そのように見えることもあるが、むしろ魂の欲望が呼び寄せた結果なのです。

六道輪廻の最上の楽がある天道では、快楽に満ち、苦しみもなく寿命も長い。
しかし皮肉にも、天道では最下層の地獄道に勝る苦悩があります。
天道は長寿であるが不死ではなく、その寿命が尽きる前の兆しとして体に汚穢が生じ、
死ねば最上の快楽の世界を離れて、また六道の輪廻を繰り返す苦しみがあります。

人はこの世に生まれ出るに当たって定めの道(宿命)を歩いて行く。
人としてこの世に生まれ出るのは魂に宿題が課せられているからである。
(命に対する宿題・宿命)だが人の運命は絶対に変わらないと云う一本道ではない。
運命にはある程度の幅がある。どんな道でも別れ道がある。
常に広い道を歩いて行くならばその運命はさほど変わらない。
しかしその道の途中には枝のような小道もあれば右に行けばよいのか左に行けばよいのか
解らないような道幅の道も出て来る。


転生の目的として、【過去世においてやり残したものを今生で叶える】があります。

人間は前世の償いをするために生きることもできる。
償えばマイナス分が帳消しになり、償いをしたという経験を積むことになりますが、
それのみだと過去の帳尻合わせに終始してしまいます。
今生では、如何にプラス点を積むということも大事なのです。

過去世が貧乏だったから、今生では億万長者になってやろうという人がいるとします。
もし欲深い億万長者になれば、自分の金銭に執着し更に稼ごうとします。
その稼ぐ手段が他人を不幸にする方法で無ければ良いのですが、
手段が悪ければ悪いカルマを積むことになり、
来世では餓鬼道もしくは貧乏人に生まれてくるかもしれません。
そして貧乏人の人生が終わり、また転生してきた時に過去世が貧乏だったから、
またもや今生では億万長者になってやろうということをして、
また来世で貧乏人に生まれ変わり、また億万長者に生まれ変わるを繰り返すかも
しれませんね。

ネズミが回し車を回すかのように六道輪廻を繰り返す、ということです。
そうならないように生まれてきた意味を問い直す必要があると存じます。


うっかり大道を外れて小道に入ればその道は獣道であったり途中で道が消えたりする。
その時はその道を進んでは行けない。必ず元の大通りまで引き返すことである。
そのまま道無き道を進んだり獣道を行けば道を踏み外して大怪我をする元になったり、
定められた命の時間より早く命を落とすことにもなる。


イライラしているとき、怒っている時に呼吸に気を向けてください。
呼吸が短く荒くなっているはずです。
逆に落ちついている時の呼吸は長く静かです。
良い呼吸には心を整える力があります。

数息観

数を数えながら呼吸の様子を観察します。
鼻の頭に軽く意識を掛け、普通に息を吸って、ゆっくり長く息を吐く。
息を吐く時に、頭の中で一と数える。
次、普通に息を吸い、ゆっくり長く息を吐いてニと数える。
次、普通に息を吸い、ゆっくり長く息を吐いて三と数える。
次は、四という風に一から十まで数え、十まで行ったら
今度は十から数を減らして行って、一に戻る。一に戻ってからはまた十まで数える。
の繰り返しです。

しかし、途中で雑念に気が囚われたら一から数え直す。

リラックスしながら呼吸をする。
リラックスできていれば勝手に腹式呼吸になる。
吐きすぎたり、吸い過ぎたり苦しくなるような呼吸は自然でないので☓です

数を数えることに集中することで雑念を抑えながら, 呼吸と心を整える行法です。
雑念が湧いてきても、雑念が湧いてきたなという風にそれに気付いていれば良いです。
最初は雑念まみれになりますが、それに囚われなければよろしいです。
雑念を消そうとする囚われでありますし、囚われないようにもがくのも囚われです。
雑念に気づき、なおかつそれを放っておきながら呼吸と数を数えることに集中します。
自分が呼吸していることに気づかなくてはなりません。
むしろ雑念まみれでも、それに囚われないように呼吸と心を観察し続けることに
価値があります。



いわゆる不動心、集中力を養うための行法です。
たとえば怒っている時に、"今自分が怒っている"などと気づいてしまえば
妙に冷静になってしまいます。こういうのを智慧と呼びます。

毎日やることで効果があるようですが、寝る前の数分でもどうぞ。

今回は米教の解説とは少し離れます。

さて真我と聞けば、胡散臭い宗教的な物であるとイメージする人が多いかもしれません。

ヨガとか仏教などでは、自我(執着や愚かさ)やカルマを超えた存在を真我と
呼びます。五井正久氏もそれと同じような説明をしている思います。

米教が仏教的な解脱を目指すかは置いといて、解脱の説明をします。

まず、この世は苦界です。
この世は喜びに満ちあふれて見えるように見えますが、それも苦の原因です。
愛しい存在にあえばその愛に執着し、その別れに苦しみ、
憎んでいる存在に会えばあれば、それに苦しみます。
これらの原因はエゴです。

喜びがあればそれに執着し、それがなければ苦しみます。
苦しみがあれば、それに対して怒りや恐怖に苦しみます。それも執着の一つです。
すべての存在が無常であるにも関わらず、それに執着する愚かさが
人間の苦しみの元です。

これらの執着や人愚かさを煩悩と呼びます。

煩悩をなくせば、一切の苦から離れることができるというのがヨガや仏教です。
それが解脱です。

そのための修業なのですが、

真我への道
↑のページはヨガのページですが、功徳や懴悔について書かれています。

修行といえども、山に篭ったり瞑想するだけが修行ではなく
己の行いや心を振り返ってみて、悪い所があれば懴悔する、
というのも行です。
上記のページはクンダリニーヨーガについても説明されていますが、
独学での試みは危険とされています。


自分の罪業のカルマを消すためには功徳を積むのが良いらしいです。
陰徳と呼んで、人に知らせずひそかにする善行です。
匿名の寄付などです。

ヨガは解脱(執着や愚かさ)のために功徳をつんだり、
悪いカルマを作らないように悪業を積まない = "戒律"というような
一種、利己的見えるような目的で善を行うということがあるようです。

しかしながらその思想は人に褒められて、名誉欲を満たしたいから善をするとが
根本的に離れていて、解脱するため(執着、自我を超えるため)のプロセスとして
功徳や戒律があると考えられているようです。
私個人の気づきです。

愛は、本当に純粋です。人間は根源的に愛を持っています。
神々も愛を持っておられます。
人間皆、愛されれば嬉しいものです。拒絶されれば悲しいです。

人間も一切合切の執着を捨てれば、無条件の愛がでてきます。
それは情けであり、許しであり、慈しみであります。
愛こそが人間の根源的な部分です。

しかしながら胸に手を当てて考えてみてください。

貴方の内なる声が本当に愛だけを求めているのでしょうか?

心臓にチャクラがあります。アナハタとかハートチャクラと呼ばれています。
アナハタは不滅とかという意味です。
胸に手を当ててみれば、ここが愛とか癒やしの根源であることがわかります。
人間的な暖かさが宿る部分です。
また、ここに魂や内なる指導者がいると考えられています。


……自分の中に神の性質を見る、
自分が思っていた以上の自分がいる
自分よりもっとおきな力が存在しているそういうことに気づくのが
アナハタ・チャクラである
……らしいです。

そして人間の体のど真ん中のチャクラです。

下位のチャクラ、
ムーラダーラチャクラ、スワディシュターナ、マニピューラチャクラが
より動物的であり、権力とか体力等のパワーの根源という風に見れます。

しかし、アナハタチャクラは愛、情け、許しというもっとも人間らしい部分を
司る部分であります。
しかしながら愛に苦しみ、情けに苦しみ、許せないから苦しむという人間の
苦しみをそのまま司ります。

アナハタに魂や内なる指導者がいると申しましたが、人間の内なる指導者とは
愛ではありません。良心です。

考えてみてください。
罪悪感とか良心の呵責です。あの胸をつくような痛みです。

人間がなぜ罪悪感を持つかといえば、誰もが
今よりももっと良い人間になりたいと思っているからです。

もう一度言います。より良い人間になりたいとおもっているからです。

逆に良心に沿った行動を行えば、胸の内が清らかでしょう。
良心に従って生きている方は胸を張っていればよいのです。

何故かハートは良心とも関わっているようです。

愛だけを叫んでいるうちは、人間は進歩しません。
なぜなら赤ん坊ならば親の愛だけが命の根ですし、
愛がなければ生きていけませんでしたが、
読まれている方におそらく赤ん坊はいないでしょう(笑)
成長するに連れて、躾があったり叱られたりがあったと思います。
それには生きることには義務と責任が伴うから、
もっと成長させる必要があり、優しさとか単純な愛だけを与えるわけには
いかないからです。そのための躾とお叱りです。

成長するにつれて、人間は社会的だったり霊的な責任を負います。
社会的な責任とは、法律上の物だったり、何かに所属することに
よって生ずる責任等です。
個人の霊的な責任とは、自分をより良くしていくための責任です。
人間はだれしも自分をより良くしていくための責任があります。
その基準と舵取りは、良心というラ針盤です。

良心があるならば自分で自分のことを省みて、より良く自分を
導く必要があります。

胸に手を当てて考える、とあるのはここに良心があるからです。
良心を神道では直日とか呼びます。
悪いことをして、良心の呵責があれば、胸が痛くなるでしょう。
最近ですが、悔い改めもハートのチャクラにあるのではないかと感じました。

愛だけを求めるのは赤ん坊のやることです。
愛だけを強調するのは幼稚園児です。
赤ん坊と同じ扱いをされた大人は、気持悪く感じるでしょう。

スピリチュアルでは愛がよく言われますね。
しかしながら、スピリチュアルで愛をいっておられる方が
私には本当に愛が目覚めているのかと言えばわかりません。

むしろ愛!愛!を連呼するところに私は病的なものを感じます。
本当にそういった方が人を癒やせるのでしょうか?
幼稚園児が人を導けるのでしょうか?

子供に愛!愛!だけを連呼して子供が育つのでしょうか?
将来において正しく生きられるように躾をしたり、叱ったりがあるでしょう。

またご自分がその愛のお題目で本当に癒やされているのかを
"胸に手を当てて"考えてみてください。

挙句の果てに罪悪感を捨てろとは、他人の霊性に進歩を阻害する行為です。
罪悪感を消すために愛!ポジティブ!感謝!等で厚化粧をするのではなく
罪悪感があるのならばもっと良心にしたがって己を悔い改めて、
よりよい自分へと高めていく必要があるのです。
悔い改めは、己の良心とか高位の神仏に誓うものです。

しかしながら人間すべての人間は何かしらの罪を犯しています。
罪を犯していない人間はいません。

また過去世からの罪や気づいていない罪もあります。

罪の意識、良心の呵責があるならば、

もっと良い人間になることでしかそれは償えません。

それを無視しようとするならば、生まれてきた理由を無視してしまうことです。


しかしながら、胸のつかえがあるならば、
神でも誰でもなく、ご自分の胸、ハートに存在する"魂の指導者"である
良心に懺悔をしてみたらいかがでしょうか。
別に神仏に対してでなく、己の良心に対してです。

神よ!私は罪を犯しました!!ではなく罪を悔いて良心にしたがって
もっと良い人になり、霊性の高い人になろうというものです。
そのために人間が生まれてきたのではないかと、思っています。

他人に許しを乞うことはあるでしょうが、ご自分の魂に許しを乞う人は
少ないのはないでしょうか。
必要なのは悔い改めて、自分をより良い人にすることへの誓いではないのでしょうか。


あくまで仏教の懺悔文ですが……

我れ昔より造る所の諸[もろもろ]の悪業[あくごう]は、
皆な無始[むし]の貪[とん]瞋[じん]痴[ち]に由り、
身[しん]語[ご]意[い]従[よ]り生[しょう]ずる所なり。
一切を我れ今[いま]皆な懺悔[さんげ]す。

私が昔からなしてきた様々な悪しき行いは、
すべて始まりもない太古からの貪りと怒りと愚かさを原因として、
身体と言葉と心によってなされたものである。
それら全てを私は今みな懺悔します。


罪悪感は良心からのギフトでもあります。
それがなければ人間などは霊性は向上などしませんし、自分の非に気づきません。

罪があるのに、悔い改めなければそれは永遠の停滞です。そこで愛を叫び続けるなら
愛地獄でしょうし、感謝を叫び続けるなら感謝地獄ですし、ポジティブを叫び続けるならポジティブ地獄です。

良心の悔い改めがなければ、地獄のままです。

神仏にたいしても、本来は願掛けをするために神社があるのではなく
神仏は見守られているのです。
だから本来は、自分の欲望や願いの願掛けをするのではなく、
今ままでの前非を悔いまして、これからは己の良心にしたがって
良い人となろうと努力いたしますのでどうかお見守りください、が正解なのです。

私は神でないのでわかりませんが、そういうお方を神々は愛されると考えています。

物がほしい!の願掛けは、子供が親に駄々をこねるようなものです。
それでは神様は困ってしまいます。
子供が駄々をこねる度に物を与えていたら、駄々をこねるだけが能の人間になってしまうからです。神様にとっては罪になるでしょう。


なぜ霊性を向上させる必要があるかというと、それは自分に響いてくるものが
変わってくるからです。
罪悪感を捨てた人間が本当に幸せになれるのでしょうか?

本当に必要なのは他人に導いてもらうことではなく、癒やしでもなく
自分の良心で自分を導くことではないでしょうか。

またスピでいわれるいわゆるチャネリングですが、だいたいが低級霊です。
愛だけを連呼していって、良心を忘れると霊体が蛇になっていくようです。

本当の愛に目覚められた方は、人を癒やすために
高い料金をとる必要があるのでしょうか?

良心を忘れてはいけません。
悔い改めを忘れなければ、己の良心に対してもか胸を張れる日がくるでしょう。
私もまだまだの人間です。



……自分の中に神の性質を見る、
自分が思っていた以上の自分がいる
自分よりもっとおきな力が存在しているそういうことに気づくのが
アナハタ・チャクラである

また、私は良心の働きに神を見て、良心神と呼んでいます。
この世のお天道さんです。
良心を持つ人がいない世界は真っ暗闇の地獄です。
誰もが愛を持っています。
しかしながら、愛はこの世を照らす太陽にはなりません。
米教の教えを簡単に要約するとこうです。

お天道さまが見てござる!!悪いことはできねえ!!です。
粋って感じでしょう。

それだけではありません。
悪いことだけが見通しではありません。
お天道さんは人間の良い部分は見ないのか?
そこまで意地が悪くはありません。
そんな意地悪い姑みたいな奴ではありません。

良いこと(公のために尽くす)もお天道さまはお見通しなのです。
良いことは他を救いて世根(米)と成れ。
世の為人の為に尽さしめ給え!!
良いことをすれば褒美。
悪いことをすれば罰。
信賞必罰は良心(神)が行うということです。

お天道さまは太陽の意味がもあるのですが

1 太陽を敬い親しんでいう語。
2 天地をつかさどり、すべてを見通す超自然の存在


2番目の意味も汲んで欲しいのです。
私は、それを神社の神とかではなくて唯一なる神を仰いでいるのです。
悪いことをすればお天道様に筒抜けだ!!!!
ここでいうお天道さまは神社の神でも自分の先祖でもありません。
良心でしょう。
自分に活けられた良心神なのです。
ただそれを活けた存在を唯一なる神として崇拝しているのです。

米教はそれを踏まえて
お天道さまが見てござる!!悪いことはできねえ!!
他人も救わねえといけねえ!!


なのです。その褒美は魂の出世です。
お天道さんは、天への道。
他人を救った人間は神にもなるのです

善人が損をする?当たり前だ!
だが、他人を救えばいつかは誰かに救われるものです。


お米とは不思議なもので、豊かに実れば自然と稲穂が頭を垂れるように下がって来ます。
それと同様に、人も魂が実って来ると自然と頭を垂れるような人になって来るのです。

いわゆるキリスト教的な神は、俺にはあまり馴染みがない。
昔の日本人がよく言ったように、お天道様が見ているという方が俺の心にはしっくりする。
何をするのもお前の自由だ、でもお天道様はいつも見ているんだよという感覚が、
神様と人間との関係で言えば、いちばん理想的な距離感だと思うのだ。 by 北野武


唯一神を知ってから良心神を知るのが良いのか。
良心神を知ってから唯一神を知るのが良いか。

どっちが良いのかを考えた時に、別に唯一神としては知らなくても
良心神の点数が高い方はおられる。
ただそういった方は、その神をいわゆるお天道さまとして理解されて
おられるのではと考えた次第です。
真幸くありこそは、無事であってほしいと意味です。


↓2つの動画はただの趣味です。
音楽が前衛的ですが歌詞が神道っぽくて好きなので貼ってみました。





本稿は米教解説ではありません。

上野公園さまがよく
日本語は漢字がないと感じが掴めないと仰られていますが
例えば
草薙の八重剣=腐退きの汚穢絶るぎ(ホツマツタヱより)

このように名前を聞いても、
音だけではその働きが理解ができないものがあります。
これは神界の秘密なのか、我々現代人の理解力がないだけなのか
どちらかはわかりません。

ここでいう理解力は言霊に対する理解力です。
象気功の象師匠が古代人は、言霊の影響が現代人よりも
敏感だったのではないかと仰られています。
簡単に言えば
我々は言葉を音として聞いて言語として頭で解釈しますが、
古代人は言霊の力を体で感じることができた、その影響力を身体で
理解できたのではないかということです。

もっとも合気道の植芝盛平開祖は、稀有な人で
聖師から言霊のお勉強的な手ほどきを受けることなく
つまり誰にも教わることなく自力で
言霊の解釈ができるようになったと仰られています。

しかしながら現代においては、言霊という観点では神代からの大和言は
乱れに乱れてしまっているのかもしれませんが。


神代より 言ひ伝て来らく そらみつ 大和の国は 
皇神の 厳しき国 言霊の 幸はふ国と 語り継ぎ 言ひ継がひけり

スメカミの神代からの日本語に仕組まれた
言葉の仕組み。その偉大さ。


磯城島の 大和の国は 言霊の 助くる国ぞ 真幸くありこそ

この国は、言霊が人を助ける国であるからその力で無事であってほしい。
畏れ多いことですが、
救いこそスメカミの願いであり、その為の神仕組みを敷いてきた
ということかもしれません。


天照大御神と須佐乃男命と誓(ウケイ)のくだりは
ご存知かと思われますが天に上られた須佐乃男命に対して、
天照大御神は厳しく武装した姿で出迎えられた。
最終的に宇気比を行い、須佐乃男命の持ち物から三女神が生まれ
天照大御神の持ち物からは五男神が生まれた。

三女神(航海の神として祀られている)
田心姫、湍津姫、市杵嶋姫

五男神(聖師の言霊解釈では戦争の神)
正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命、天之菩卑能命、天津日子根命
活津日子根命、熊野久須毘命

私の個人的な解釈ですが、五男三女の神柱から見て取れることは
天照大御神=良(ラ)心神の裁きは厳しいけれども
須佐乃男命(ス神)はかけまくも畏こき天帝の慈悲深き、
万物を遍く救う働きの神であります。、
裁きと救いの中に天帝の葛藤、それが誓の中に
現れているのではないかと存じております。
その結果として、天照大御神は岩戸にお隠れなされた。

本当の天照大御神が岩戸から御出でになれば(良心神による最後の審判)
ほとんどの神霊や人が光に焼け、苦しみにのたうち回ります
そのため岩戸の中に隠れ遊ばされた。

天帝のお心を代弁しようなどと畏れ多いことですが、
そのお心は慈悲深く、一切万物を救いたいお気持ちに御座いますが
厳しく裁かねばこの世をもう一度泥海からやり直せばならない、
ということです。

この期に及んでは、そのお心に報いることは
己を含めて一人でも救われる霊及び人を増やすこと以外にはありません。
一霊四魂の魂論に附随して五情の戒律というものがあります。



一霊四魂は良心、勇、知、親、愛に対応しています。
五情の戒律はそれぞれの一霊四魂に対応していますが、良心を出せ、勇気を出せ、
智慧を出せ、人と仲良くしろ、人を愛せではありません。
これらも大事な要素だと考えられますが、五情の戒律ではありません。



五情の戒律は省みる、恥じる、悟る、悔いる、畏るです。
(良心を出せと省みるは一緒の意味になるかもしれませんが)
"恥じる、悟る、悔いる、畏る"は"自分を省みる"がその土台となっています。


四足的存在にも勇、知、親、愛はあるでしょう。
悪人でも恥知らず故の妙な行動力があったり、悪知恵だったり、表面的に取り繕ってうまく人と和すようなことも、道理を弁えないような愛もあるでしょう。

どこまでも"自分を省みる"です。
一霊たる直日(良心)が四魂をコントロールしているか、それが霊止と四足の違いです。

"君子に三の畏れあり、天命を畏れ、大人を畏れ、聖人の言を畏る。 孔子”
"神を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る。 旧約聖書 "


特に幸魂の畏れよは、畏まって敬うという意味です。
侮るな、なめるなという意味です。
畏れよを積極的に捉えれば感謝にもなるでしょうし、信仰心の元にもなるでしょう。

四四ですが、獣(シシ)とも読めます。
一霊(直日、良心)を失えば✕(罰)がでてきます。
○に✕は警察署のマークです。