旧約聖書の神と名乗る神のお言葉をお借りします。

人の一生とは長いようで短い。
人がこの世に居る時間とは永遠性の命を持つ魂の世界から見ると
修学旅行に出たような僅かな時間にしか過ぎない。
その修学の場で多くの魂と触れ合って学んで行く。魂の縁を結ぶ。
そして、この世を去って魂の故郷である魂の世界にと帰って来る。
魂の世界に帰って来てもこの世で出会った魂と再び巡り会えるとは限らない。
この世では魂は旅人と同じである。人は僅かな修学の時間で何もかも学べるものではない。
全ての喜び全ての悲しみ全ての苦しみを体験することなどは出来ない。
自分が学べなかった体験も他の者が学んでいたりする。
他の者が学んだこと他の者が犯した過ちなどを知り全て
自分の学びの糧としなければいけない。他の人の体験を否定してはいけない。
魂を磨く為に出た僅かな時間の修学の場で修学することを忘れて遊び回ったり
刹那心に溺れ自分の魂を汚したり永遠性の命を持つ魂を腐らせてはいけない。
魂を潰したり腐らせたならば、その魂はいったい何の為にこの世に生まれ出たのかとなる。
生まれ出た価値がない。それならば最初から生まれ出ない方がよい。
人の一生においてはいろんな出来事が起きる。
それは映画の中の一コマのようなものにしか過ぎない。
過ぎ去れば思い出である。その一コマ一コマの場面に縛られてはいけない。
それを持って人を云々してもいけない。
人はその一生を終えた時
【魂がこの世で何を学んできたかが問われる。それが一番重要なことである】


生物の一生は短いが輪廻転生は終わりなく、その回数分の人生を通して多く学ぶことは
魂の渇望であります。
魂の渇望は経験を積むことであり、善悪快苦愛憎を含んださまざまな経験を積むでしょう。
今生の経験・立場は、個人の意思や欲望が望んで呼び寄せた結果ではなく、
そのように見えることもあるが、むしろ魂の欲望が呼び寄せた結果なのです。

六道輪廻の最上の楽がある天道では、快楽に満ち、苦しみもなく寿命も長い。
しかし皮肉にも、天道では最下層の地獄道に勝る苦悩があります。
天道は長寿であるが不死ではなく、その寿命が尽きる前の兆しとして体に汚穢が生じ、
死ねば最上の快楽の世界を離れて、また六道の輪廻を繰り返す苦しみがあります。

人はこの世に生まれ出るに当たって定めの道(宿命)を歩いて行く。
人としてこの世に生まれ出るのは魂に宿題が課せられているからである。
(命に対する宿題・宿命)だが人の運命は絶対に変わらないと云う一本道ではない。
運命にはある程度の幅がある。どんな道でも別れ道がある。
常に広い道を歩いて行くならばその運命はさほど変わらない。
しかしその道の途中には枝のような小道もあれば右に行けばよいのか左に行けばよいのか
解らないような道幅の道も出て来る。


転生の目的として、【過去世においてやり残したものを今生で叶える】があります。

人間は前世の償いをするために生きることもできる。
償えばマイナス分が帳消しになり、償いをしたという経験を積むことになりますが、
それのみだと過去の帳尻合わせに終始してしまいます。
今生では、如何にプラス点を積むということも大事なのです。

過去世が貧乏だったから、今生では億万長者になってやろうという人がいるとします。
もし欲深い億万長者になれば、自分の金銭に執着し更に稼ごうとします。
その稼ぐ手段が他人を不幸にする方法で無ければ良いのですが、
手段が悪ければ悪いカルマを積むことになり、
来世では餓鬼道もしくは貧乏人に生まれてくるかもしれません。
そして貧乏人の人生が終わり、また転生してきた時に過去世が貧乏だったから、
またもや今生では億万長者になってやろうということをして、
また来世で貧乏人に生まれ変わり、また億万長者に生まれ変わるを繰り返すかも
しれませんね。

ネズミが回し車を回すかのように六道輪廻を繰り返す、ということです。
そうならないように生まれてきた意味を問い直す必要があると存じます。


うっかり大道を外れて小道に入ればその道は獣道であったり途中で道が消えたりする。
その時はその道を進んでは行けない。必ず元の大通りまで引き返すことである。
そのまま道無き道を進んだり獣道を行けば道を踏み外して大怪我をする元になったり、
定められた命の時間より早く命を落とすことにもなる。