ソーシャライズされた人々はヒューマノイドと化すか?
ヴィジュアル系バンドが好きである。
スタート地点は記憶にある限りだとGacktで、そこからPIERROT、Dir en grey、ムック、cali≠gari、Plastic Treeなどへと流れていった。
なぜヴィジュアル系が好きなのかと問われても返す言葉は特になく、ただ「何となく」と言う他ないのだけれど(好きなモノに理由なんて求められてはたまらない)、どこが好きなのかはある程度答えられる。
ヴィジュアル系に限らず、どこか世の中のメインストリームから逸れているような香りがする何物かに惹かれる。
西尾維新というライトノベル作家の操る、どこか偏執狂じみた文体だとか。
最近だと『WIRED』という雑誌が、テクノロジー誌でありながらもアングラな空気を纏っていて、強く印象に残っている。
僕は、世の中の本来の姿は多様性を持つものだと考えている。
その一方で、大学生からビジネスマンにライフステージを変えてから一年と少しが過ぎたというのに、そして多少なりとも視野は広がったはずだろうのに、やはり世の中が画一的というか、何かに流された人々の集合体のように見えてならない。無論、僕の視界がまだまだ狭いであるとか、バイアスがかかっているというような問題もあるだろうけれど。
多様であることが本来の姿であり、画一的であることが異様であるとするならば、僕は幸か不幸かその境地には至っていないが、
「普通さに恐怖を感じ、狂気に安堵を覚える」
というような精神性も、もしかしたら有り得るのかもしれない。
人工物の匂いがする「平等」を根底に持つ学校教育や、僕もつい最近通ってきた道である就職活動などは画一性を感じる最たる例だ。個性は伸ばすものではなく勝手に伸びていくものであると考えている僕ですら、そのような状況で一体どうやって自我を育てればいいのか疑問を禁じ得ない。
ブログ、Twitter、Facebookなど、ソーシャライズをコンテンツそのものとしたサービスが最近はどんどん増えている。僕は情報・通信分野のコンサルタントなので強く感じるのだが、その潮流は個人に留まらず、企業などにも着実に広がってきている。
そういった人々のつながりがテクロノジーを背景に加速していく中で、たとえばファシズム的な同調圧力や、出る杭を打つような集団行動は、正しい抑制をされるのだろうか? それがあまりにも批判をしづらい「善意」のような仮面をかぶっていたとしても?
ソーシャル・メディア上のパーソナリティは、不特定多数の人間との付き合いを想定している以上、本来の自分よりも人好きがするような、ある意味で「人格者」な振る舞いが選ばれることが多い。
そんな微笑みの仮面をかぶったマス・ゲームの構成員達によって、不覚にも個性を発揮したり、自分の考えていることを正直に発露させてしまった人々が駆逐されてしまわないか、僕は危惧を抱いていたりする。
だからこそ、ヴィジュアル系のように、中二病であるとか自意識過剰であるとか、イロモノ扱いをされるだとか、そういった世間の冷たい視線を乗り越えて、自分達の思い描く姿を力強く表現している人達に、惹かれているのかもしれない。
スタート地点は記憶にある限りだとGacktで、そこからPIERROT、Dir en grey、ムック、cali≠gari、Plastic Treeなどへと流れていった。
なぜヴィジュアル系が好きなのかと問われても返す言葉は特になく、ただ「何となく」と言う他ないのだけれど(好きなモノに理由なんて求められてはたまらない)、どこが好きなのかはある程度答えられる。
ヴィジュアル系に限らず、どこか世の中のメインストリームから逸れているような香りがする何物かに惹かれる。
西尾維新というライトノベル作家の操る、どこか偏執狂じみた文体だとか。
最近だと『WIRED』という雑誌が、テクノロジー誌でありながらもアングラな空気を纏っていて、強く印象に残っている。
僕は、世の中の本来の姿は多様性を持つものだと考えている。
その一方で、大学生からビジネスマンにライフステージを変えてから一年と少しが過ぎたというのに、そして多少なりとも視野は広がったはずだろうのに、やはり世の中が画一的というか、何かに流された人々の集合体のように見えてならない。無論、僕の視界がまだまだ狭いであるとか、バイアスがかかっているというような問題もあるだろうけれど。
多様であることが本来の姿であり、画一的であることが異様であるとするならば、僕は幸か不幸かその境地には至っていないが、
「普通さに恐怖を感じ、狂気に安堵を覚える」
というような精神性も、もしかしたら有り得るのかもしれない。
人工物の匂いがする「平等」を根底に持つ学校教育や、僕もつい最近通ってきた道である就職活動などは画一性を感じる最たる例だ。個性は伸ばすものではなく勝手に伸びていくものであると考えている僕ですら、そのような状況で一体どうやって自我を育てればいいのか疑問を禁じ得ない。
ブログ、Twitter、Facebookなど、ソーシャライズをコンテンツそのものとしたサービスが最近はどんどん増えている。僕は情報・通信分野のコンサルタントなので強く感じるのだが、その潮流は個人に留まらず、企業などにも着実に広がってきている。
そういった人々のつながりがテクロノジーを背景に加速していく中で、たとえばファシズム的な同調圧力や、出る杭を打つような集団行動は、正しい抑制をされるのだろうか? それがあまりにも批判をしづらい「善意」のような仮面をかぶっていたとしても?
ソーシャル・メディア上のパーソナリティは、不特定多数の人間との付き合いを想定している以上、本来の自分よりも人好きがするような、ある意味で「人格者」な振る舞いが選ばれることが多い。
そんな微笑みの仮面をかぶったマス・ゲームの構成員達によって、不覚にも個性を発揮したり、自分の考えていることを正直に発露させてしまった人々が駆逐されてしまわないか、僕は危惧を抱いていたりする。
だからこそ、ヴィジュアル系のように、中二病であるとか自意識過剰であるとか、イロモノ扱いをされるだとか、そういった世間の冷たい視線を乗り越えて、自分達の思い描く姿を力強く表現している人達に、惹かれているのかもしれない。
『無色透明のドグマ 1』
「さあ。最後までお読み下さった皆々様に、ここで問題です」
ブログ小説家、雨月夜道(アマツキヨミチ)の書く奇妙奇天烈、複雑怪奇な物語の末尾には、決まってそのような文言が記されていた。この一文を見てしまっては最後、僕はまた眠れない夜を過ごすことになる。
僕、百合川獅ノ介(ユリカワシノスケ)がこのブログ「止水の杜」にハマり始めたのはつい先日のことだ。友人の八咫村(ヤタムラ)に教わり、勧められるがままに一つの物語を読んだが最後、その妖しくも美しい世界観に魅了されてしまった。
彼の小説世界は、他のどこで読んだ物語とも異なっていた。中世ヨーロッパと現代日本の風景が違和感なく同時に流れたり、古代インダス文明に生きた老婆とアメリカ建国の父であるワシントンが並行して描かれたりする物語など僕は他に知らない。彼の文体には得も言われぬ幽美な色香と頽廃的な空気が立ち込めており、凶悪な野獣の悲しみを切々と語るその筆で酸鼻極まる殺戮を訥々と語り、妖精が出てくるかと思えば未来的なガジェットが溢れかえり、蒸気機関が世間を騒がせたかと思えば石器時代に思いを馳せる。一体彼の脳はどうなっているのか、想像もつかなかった。おそらく、無数の歴史書とあらゆるファンタジーがミキサーにかけられているに違いない。
それだけでも厄介なのだが、輪をかけてタチの悪いことに、彼の物語はジャンルとして「ミステリ」に属していた。だからこその、あの一文である。読者は彼の織り成す妖美な世界に散々振り回された挙句、最後の最後で放り出されてしまう。その上、解決編は存在しない。
もし最後の一文が無ければ、それはそれで一個の物語として完成するだろう。何故ならば、彼は「謎」を誰にもバレないように物語の内部に仕込むのである。夢中で読み進めているうちは、そこに謎があることすら認識できない。最後の最後に、作者に告げられて初めて、それが重大な謎としてぽつんと残されていることに気付かされるのだ。そんなことをされてしまっては、一番美味しい一切れを食べ残しているような気がしてしまい、頭を捻り、インターネットの海を泳ぎ回って同じ苦悩を抱える読者の感想や考察を調べ上げ、正解を探し回ることになる。けれど悲しいかな、作者が回答を示さない以上、それはどこまで行っても仮説の域を出ない。そうこうしているうちに、次の物語が発表されるのである。
僕を始めとした彼の読者は、どこまでも甘美で麻薬的な物語という名の薬品に、喉を焼かれるような気分で日々を過ごしているに違いない。
しかしあまりに彼の物語にハマっていては、生活に支障が出る。僕も一介の大学生として、単位は大切なのである。「授業は」ではなく「単位は」と言ってしまう辺りが情けないことこの上ないが、大学の授業に楽しみを見つけ出すことは難しい。その他大勢の大学生達と同じように、日々に退屈し、ちょっと騒いでは世間から冷たい目で見られている僕のような存在にとって、だから雨月の書く物語は変わり映えのしない日常から脱け出す一つの特効薬でもあった。
とはいえ、そろそろ遅刻してしまう。いい加減に家を出よう、最後に更新をチェックしたら家を出よう……と微妙な意志の弱さを痛感しつつもトップページに戻ると、そこには小さな違和感があった。 これまでどの時代も、どの国家も、どの異世界も股にかけてきた雨月夜道が綴った最新の作品の舞台は、僕が住むこの街――東京だったのだ。
普通に考えれば別に珍しいことではない、どころか世の中には東京が舞台の小説など溢れかえっているくらいだろう。むしろ陳腐というか、普通過ぎるというか、そう、あまりに「普通な」選択であるからこその、違和感だった。
彼はこの何の変哲もない、日常にまみれた、洗練されているというよりはサラリーマンやOLや大学生で踏み慣らされている東京という街を題材に、一体何を描こうというのか。
僕は楽しみに感じるというよりは、ぞっとした。
異世界が急に僕の隣に座ったような気がして。
しばらく、その感覚に飲まれていて――
――その気配に、気付けなかった。
ブログ小説家、雨月夜道(アマツキヨミチ)の書く奇妙奇天烈、複雑怪奇な物語の末尾には、決まってそのような文言が記されていた。この一文を見てしまっては最後、僕はまた眠れない夜を過ごすことになる。
僕、百合川獅ノ介(ユリカワシノスケ)がこのブログ「止水の杜」にハマり始めたのはつい先日のことだ。友人の八咫村(ヤタムラ)に教わり、勧められるがままに一つの物語を読んだが最後、その妖しくも美しい世界観に魅了されてしまった。
彼の小説世界は、他のどこで読んだ物語とも異なっていた。中世ヨーロッパと現代日本の風景が違和感なく同時に流れたり、古代インダス文明に生きた老婆とアメリカ建国の父であるワシントンが並行して描かれたりする物語など僕は他に知らない。彼の文体には得も言われぬ幽美な色香と頽廃的な空気が立ち込めており、凶悪な野獣の悲しみを切々と語るその筆で酸鼻極まる殺戮を訥々と語り、妖精が出てくるかと思えば未来的なガジェットが溢れかえり、蒸気機関が世間を騒がせたかと思えば石器時代に思いを馳せる。一体彼の脳はどうなっているのか、想像もつかなかった。おそらく、無数の歴史書とあらゆるファンタジーがミキサーにかけられているに違いない。
それだけでも厄介なのだが、輪をかけてタチの悪いことに、彼の物語はジャンルとして「ミステリ」に属していた。だからこその、あの一文である。読者は彼の織り成す妖美な世界に散々振り回された挙句、最後の最後で放り出されてしまう。その上、解決編は存在しない。
もし最後の一文が無ければ、それはそれで一個の物語として完成するだろう。何故ならば、彼は「謎」を誰にもバレないように物語の内部に仕込むのである。夢中で読み進めているうちは、そこに謎があることすら認識できない。最後の最後に、作者に告げられて初めて、それが重大な謎としてぽつんと残されていることに気付かされるのだ。そんなことをされてしまっては、一番美味しい一切れを食べ残しているような気がしてしまい、頭を捻り、インターネットの海を泳ぎ回って同じ苦悩を抱える読者の感想や考察を調べ上げ、正解を探し回ることになる。けれど悲しいかな、作者が回答を示さない以上、それはどこまで行っても仮説の域を出ない。そうこうしているうちに、次の物語が発表されるのである。
僕を始めとした彼の読者は、どこまでも甘美で麻薬的な物語という名の薬品に、喉を焼かれるような気分で日々を過ごしているに違いない。
しかしあまりに彼の物語にハマっていては、生活に支障が出る。僕も一介の大学生として、単位は大切なのである。「授業は」ではなく「単位は」と言ってしまう辺りが情けないことこの上ないが、大学の授業に楽しみを見つけ出すことは難しい。その他大勢の大学生達と同じように、日々に退屈し、ちょっと騒いでは世間から冷たい目で見られている僕のような存在にとって、だから雨月の書く物語は変わり映えのしない日常から脱け出す一つの特効薬でもあった。
とはいえ、そろそろ遅刻してしまう。いい加減に家を出よう、最後に更新をチェックしたら家を出よう……と微妙な意志の弱さを痛感しつつもトップページに戻ると、そこには小さな違和感があった。 これまでどの時代も、どの国家も、どの異世界も股にかけてきた雨月夜道が綴った最新の作品の舞台は、僕が住むこの街――東京だったのだ。
普通に考えれば別に珍しいことではない、どころか世の中には東京が舞台の小説など溢れかえっているくらいだろう。むしろ陳腐というか、普通過ぎるというか、そう、あまりに「普通な」選択であるからこその、違和感だった。
彼はこの何の変哲もない、日常にまみれた、洗練されているというよりはサラリーマンやOLや大学生で踏み慣らされている東京という街を題材に、一体何を描こうというのか。
僕は楽しみに感じるというよりは、ぞっとした。
異世界が急に僕の隣に座ったような気がして。
しばらく、その感覚に飲まれていて――
――その気配に、気付けなかった。
蛹。
「そのままの君でいいんだよ」
優しい肯定の言葉のはずなのに、そこに安住してしまえば歩みが止まる気がして、言われるたびに逆に焦燥を覚える。
多分、僕が今の僕自身を肯定できていないから、そうなる。
ボタンをかけ違えたまま外出してしまったような、何かがどこかでズレているような感覚は、比較的時間の空いた今日のような日に、夕立のように訪れては心の中をかき乱す。
特にここ最近は日々の仕事に忙殺されていたから、むしろ平和だった。
目の前の仕事に心を奪われていれば、もっと大きな問題から目を逸らしていられるから。
もっと大きな問題。
それは最近、ワクワクしていないこと。
心を動かされていないこと。
「感動しない人生を送るのは、生きていないことと同じである」
とは、アインシュタインの言葉だけれど。
ワクワクする、感動するという体験は、果たして外から降ってくるものなのか、それとも意識の問題なのか。後者の方が一見正しそうだけれど、意識の問題で解決していたら、自分の置かれた環境はいつまで経っても変わらない。
最近思うのは、「何でも心の持ちようだと考えるのは、単に自分を騙しているだけなのではないか?」ということだ。
中村天風(「人生は心一つの置きどころ」という言葉を残したヨガ修行者、思想家)を批判しているわけではない。
その意味を履き違えて、僕が解釈してしまっている可能性があるということ。
心の置きどころというものは、現状に自分は満足しているのだという自己弁護に使うのではなく、自分はもっと良い場所へ行けるのだと信じるために使われるべきではないのか。
だとすれば、僕は「そのまま」でいいのかもしれない。
「そのまま」というのは、何を指すのか。
つまり、「変わらなければと焦っている自分」でいいのではないか。
その焦りさえも失われてしまえば、僕はそこそこの生活が手に入る代わりに、無感動な人生を暗黙のまま受け入れることになるだろう。
しかし方向性さえ間違っていなければ、いつかは辿り着けるはずだ。
焦っている自分に焦る、という奇妙な循環に陥らなければいいだけのこと。
もっと自分の内側の声やインスピレーションに耳を傾けてみよう。
無難に日々をこなすのではなく。
優しい肯定の言葉のはずなのに、そこに安住してしまえば歩みが止まる気がして、言われるたびに逆に焦燥を覚える。
多分、僕が今の僕自身を肯定できていないから、そうなる。
ボタンをかけ違えたまま外出してしまったような、何かがどこかでズレているような感覚は、比較的時間の空いた今日のような日に、夕立のように訪れては心の中をかき乱す。
特にここ最近は日々の仕事に忙殺されていたから、むしろ平和だった。
目の前の仕事に心を奪われていれば、もっと大きな問題から目を逸らしていられるから。
もっと大きな問題。
それは最近、ワクワクしていないこと。
心を動かされていないこと。
「感動しない人生を送るのは、生きていないことと同じである」
とは、アインシュタインの言葉だけれど。
ワクワクする、感動するという体験は、果たして外から降ってくるものなのか、それとも意識の問題なのか。後者の方が一見正しそうだけれど、意識の問題で解決していたら、自分の置かれた環境はいつまで経っても変わらない。
最近思うのは、「何でも心の持ちようだと考えるのは、単に自分を騙しているだけなのではないか?」ということだ。
中村天風(「人生は心一つの置きどころ」という言葉を残したヨガ修行者、思想家)を批判しているわけではない。
その意味を履き違えて、僕が解釈してしまっている可能性があるということ。
心の置きどころというものは、現状に自分は満足しているのだという自己弁護に使うのではなく、自分はもっと良い場所へ行けるのだと信じるために使われるべきではないのか。
だとすれば、僕は「そのまま」でいいのかもしれない。
「そのまま」というのは、何を指すのか。
つまり、「変わらなければと焦っている自分」でいいのではないか。
その焦りさえも失われてしまえば、僕はそこそこの生活が手に入る代わりに、無感動な人生を暗黙のまま受け入れることになるだろう。
しかし方向性さえ間違っていなければ、いつかは辿り着けるはずだ。
焦っている自分に焦る、という奇妙な循環に陥らなければいいだけのこと。
もっと自分の内側の声やインスピレーションに耳を傾けてみよう。
無難に日々をこなすのではなく。