CeLL=WiRED -2ページ目

透明な嘘と臆病な優しさ。

 理想形となる何者かが自分の中に住んでいて、それに沿ったラインを描けるように行動を修正しながら生きていると感じるとき、目の前に見える道の名前は『努力』であるのか、それとも『嘘』であるのか、よくわからなくなる。

 無意識の範疇で自動的に行われる計算群をマキャベリ的な思想で処理するのであれば最善の結果を出すためのツールとしての生き様だと形容することができるのかもしれないし、聖人君子を目指すことをたったひとつの冴えたやり方として置くのであれば蛇蠍の如く忌み嫌われる生き汚さと形容されてしまうのかもしれない。

 しかしそれも、十全な意思と結果を受け入れる覚悟を持った上での行動様式なのであれば、さもありなんという感じだ。問題は、然したる意思も無く、何一つの覚悟も無く、世間の要請を唯々諾々と飲み下す形として理解される行動原理を体現してしまう場合。
 俗に「臆病」と形容される概念。

 相手が自分に何を求めているのかがありありとわかってしまうようなケースにおいて、何の自我の色も塗ることなくただ求められた形でそれを差し出せば「優しさ」として簡単に理解されるだろうということまで予測できるとき、笑顔の裏側に見え隠れする自分自身の寂しさや哀しさを無視してそれを渡してしまうことは、ある意味での裏切りに該当するのかもしれない。

 多種多様な計算群と自分で生み出した理想形が作る方程式のエックスとワイが、無色で無味乾燥な嘘と優しさで解かれるとき、イコールの先には虚しさしか残らないことも往々にしてあるのだろうと思う。

 マズローときつねとぶどう。
 心の中のビッグブラザー。
 適応機制としての親愛。
 報酬系に組み込まれた愛情。

 ヒューリスティックにまみれた私の世界。

失われた教義。

 僕らはただ普通に生きているだけで、人から、本から、映画から、テレビから、その他多くの物事から多くのものを受け取っている。社会の中で暮らす以上、山の中にでも籠って降りてこないような生活を送らない限り、有用なものから雑多なものまで、情報のシャワーを全身に浴びながら生きている。

 それを栄養にして成長することもあるだろう。
 しかしながら、僕が関心を寄せるポイントは、外から入ってくる何者かと自分の意思との関係性にある。

 たくさんのものからたくさんの影響を受ける中では、自分固有の意思と他者の思惑の境界線は、少しずつ曖昧になっていくのではないか。
 不幸なことに、自分の考え方を否定する材料は世の中に掃いて捨てるほど存在する。
 そんな中で、「強い意思が大切」と言われても、ピンと来ない人も多いのではないか。

 「自分の意思で行動していると思ったら、とっくに誰かの操り人形でした」

 なんて、笑い話にもなりはしない。


 ユングは古代の神話や宗教の間にある類似性から「集合的無意識」という存在を仮定した。
 人類普遍の思想の方向性を決定づける何かが存在すると仮定することで、全く別の場所で似たようなことが起きている事実に説明を施そうと試みた。

 集合的無意識がもしも存在するとすれば、現代社会ほどそれが力を発揮する時代もないだろう。

 個々人は24時間体制でテクノロジーによるネットワークに触れている。
 インターネットにつないでいれば、他人の思考回路にいくらでも触れることができる。それもある意味では、リアルというフィルターを取り除いた非常に生々しい実体を見せながら。

 「シェア」という概念が取り沙汰されるようになってからしばらく経つが、その勢いは落ち着くどころか加速している。僕らはお腹が破裂するほどの情報を、他人の趣味思考とセットで摂取する世界に生きることになった。この流れは進むことはあれど、遡ることはないだろう。

 ミームとミームの出会いが極度に活性化されるようになり、ミームが繁殖の機会が増えた。多種多様な個体が発生し、共食いを繰り返し、生存競争を勝ち上がった「強い」ミームは、ネットワークという優秀な供給装置を通って爆発的に普及するのではないか。
 しかもその強いミームも、さしたる時間を置くことなく、より強いミームによって駆逐されるのである。

 結果として生じるのは、数多くの価値観の正しさを同時に見せつけられながら、適応する間もなく新しい価値観が台頭するような、目の回るような世界構造なのかもしれない。

 キリスト教的世界観のような、単一の思想が人々の間に隙間無く入り込んでいた時代は、ある意味で自分で何かを考えることをしなくても、「ドグマ(教義)」が価値観を与えてくれた。守るべき道徳や信じるべき道、戦う意義に対する説明を行ってくれた。

 もはや、一つの思想が長く世界観を提供する時代は終わりを迎えているのかもしれない。
 卑近な例では、日本でも就労形態が多様化し、終身雇用制が信頼性を失い、少し前のバブル時代では「フリーターは夢を追う若者の新しい生き方」なんて言われていたのが信じられない社会が到来している。

 その中で、如何にして「自分の意思」を作り上げればよいのか。
 如何にしてそれを守ればよいのか。

 一人ひとりが、誰かに教えてもらうのではなく、自分の頭でそれを考え続けなければならない時代になった。
 そして、実はそんなこと、やってて当たり前のことだったりするのである。

「齟齬」に咲く花。

 僕らは学生という身分を越えて社会に放り出されたとき、そこに無限の可能性と無数の鎖が待ち構えていることに初めて気づく。問題は可能性も鎖も、そのままでは何の効力も発揮しないということだ。可能性を活かすのも鎖に囚われるのも、自分自身の在り方が決める。

 「適応」とは僕らが生まれ持った優秀な自己保存機能であると同時に、有能な自己破壊システムだ。

 環境と自分の間にある齟齬というのは、もしかしたら大切な才能の発露かもしれない。しかし適応機能は、それ自体は判断力を持っていない。

 環境の変化を感じたとき、多くの人は自分のことを振り返る間もなく荒波に飲み込まれていく。
 いつしかその荒波をそこそこに乗りこなせるときになって、振り返って気付くこともある。
 「溺れていた頃の方が自分らしかったのではないか」なんて。
 もしかすれば、それは自分の過去を美化しているだけかもしれない、なんて自己弁護にも似た諦めを漂わせながら。

 僕に言わせれば、それは断じて「大人になる」ということではない。
 大人というのは、自分の行動を持って子供達に夢を見せられる人のことを言う。
 この言葉自体は受け売りだけれど、僕もそう思うし、そうであってほしい。
 だから、荒波を「そこそこに」乗りこなせる程度の成長を、「大人になった」と表現したくはない。

 前述の例で言うなら、「そこそこに」乗りこなすのではなく「徹底的に」乗りこなすか、「単に」溺れるのではなく「徹底的に」溺れていたい。

 僕も例に漏れず平凡な人間だから、人並みに「世の中に対する齟齬」を感じていた。
 自分が常識だと思っていることが世の中では思ったほど常識ではなかったり、僕が感じていることが世の中の人に言わせればズレていたりすることがよくあった。

 世の中の人達が簡単に手に入れている(ように感じられていた)ものが手に入らなくて、泣きたいくらいに辛い夜を過ごしたことも、数え切れないくらいにあった。

 そういった「齟齬」は、社会に出てそれなりの時間を過ごして、随分と減ったように思う。
 減ってしまった。
 世渡りが「そこそこに」できるようになってしまった。
 妙に、楽になってしまった。
 単に、「齟齬」を感じている暇がないのである。

 今では仕事があるときは午前4時半くらいに起床するのが当然になっているし、睡眠時間が4時間を切っても疑問を感じなくなってきている。一日に15時間くらい働く日があっても、大して疲れたとも思わない。
 それを普通のこととして処理している。
 それが普通でなければならないと、無意識のうちに感じているのかもしれない。

 僕はそれを成長だと思っていたけれど、最近になってようやく、そこに危機感を覚え始めた。
 これは成長なんかじゃない。
 妥協しただけだ。
 何よりも大切な自分自身の感覚を、金と引き替えに世間に売り渡しただけだ。

 「齟齬」を怖れてはならないと思う。
 自分と世の中の間に生じる摩擦というのは、奴隷にならないために必要なエネルギーになる。
 もちろん暴走させてはならないが、どうにもままならない苛立ちであるとか、痛みだとか、悲しみだとかに鈍感になってしまうのも、奴隷の始まりなのではないか。

 思考を停止させるのは楽だ。とてもとても楽だ。
 しかしそれで失われてしまう「何か」は、もしかしたら一生を賭けるに値する大切なものかもしれない。
 
 苛立ちや、痛みや、悲しみも大切な貴方の感受性なのだから、絶やしてはならない。
 「齟齬」から目を背けてはならない。

 そういった側面に光を当ててみることが、自分の本当に望む未来への道標になるのかもしれないのだから。