「齟齬」に咲く花。
僕らは学生という身分を越えて社会に放り出されたとき、そこに無限の可能性と無数の鎖が待ち構えていることに初めて気づく。問題は可能性も鎖も、そのままでは何の効力も発揮しないということだ。可能性を活かすのも鎖に囚われるのも、自分自身の在り方が決める。
「適応」とは僕らが生まれ持った優秀な自己保存機能であると同時に、有能な自己破壊システムだ。
環境と自分の間にある齟齬というのは、もしかしたら大切な才能の発露かもしれない。しかし適応機能は、それ自体は判断力を持っていない。
環境の変化を感じたとき、多くの人は自分のことを振り返る間もなく荒波に飲み込まれていく。
いつしかその荒波をそこそこに乗りこなせるときになって、振り返って気付くこともある。
「溺れていた頃の方が自分らしかったのではないか」なんて。
もしかすれば、それは自分の過去を美化しているだけかもしれない、なんて自己弁護にも似た諦めを漂わせながら。
僕に言わせれば、それは断じて「大人になる」ということではない。
大人というのは、自分の行動を持って子供達に夢を見せられる人のことを言う。
この言葉自体は受け売りだけれど、僕もそう思うし、そうであってほしい。
だから、荒波を「そこそこに」乗りこなせる程度の成長を、「大人になった」と表現したくはない。
前述の例で言うなら、「そこそこに」乗りこなすのではなく「徹底的に」乗りこなすか、「単に」溺れるのではなく「徹底的に」溺れていたい。
僕も例に漏れず平凡な人間だから、人並みに「世の中に対する齟齬」を感じていた。
自分が常識だと思っていることが世の中では思ったほど常識ではなかったり、僕が感じていることが世の中の人に言わせればズレていたりすることがよくあった。
世の中の人達が簡単に手に入れている(ように感じられていた)ものが手に入らなくて、泣きたいくらいに辛い夜を過ごしたことも、数え切れないくらいにあった。
そういった「齟齬」は、社会に出てそれなりの時間を過ごして、随分と減ったように思う。
減ってしまった。
世渡りが「そこそこに」できるようになってしまった。
妙に、楽になってしまった。
単に、「齟齬」を感じている暇がないのである。
今では仕事があるときは午前4時半くらいに起床するのが当然になっているし、睡眠時間が4時間を切っても疑問を感じなくなってきている。一日に15時間くらい働く日があっても、大して疲れたとも思わない。
それを普通のこととして処理している。
それが普通でなければならないと、無意識のうちに感じているのかもしれない。
僕はそれを成長だと思っていたけれど、最近になってようやく、そこに危機感を覚え始めた。
これは成長なんかじゃない。
妥協しただけだ。
何よりも大切な自分自身の感覚を、金と引き替えに世間に売り渡しただけだ。
「齟齬」を怖れてはならないと思う。
自分と世の中の間に生じる摩擦というのは、奴隷にならないために必要なエネルギーになる。
もちろん暴走させてはならないが、どうにもままならない苛立ちであるとか、痛みだとか、悲しみだとかに鈍感になってしまうのも、奴隷の始まりなのではないか。
思考を停止させるのは楽だ。とてもとても楽だ。
しかしそれで失われてしまう「何か」は、もしかしたら一生を賭けるに値する大切なものかもしれない。
苛立ちや、痛みや、悲しみも大切な貴方の感受性なのだから、絶やしてはならない。
「齟齬」から目を背けてはならない。
そういった側面に光を当ててみることが、自分の本当に望む未来への道標になるのかもしれないのだから。
「適応」とは僕らが生まれ持った優秀な自己保存機能であると同時に、有能な自己破壊システムだ。
環境と自分の間にある齟齬というのは、もしかしたら大切な才能の発露かもしれない。しかし適応機能は、それ自体は判断力を持っていない。
環境の変化を感じたとき、多くの人は自分のことを振り返る間もなく荒波に飲み込まれていく。
いつしかその荒波をそこそこに乗りこなせるときになって、振り返って気付くこともある。
「溺れていた頃の方が自分らしかったのではないか」なんて。
もしかすれば、それは自分の過去を美化しているだけかもしれない、なんて自己弁護にも似た諦めを漂わせながら。
僕に言わせれば、それは断じて「大人になる」ということではない。
大人というのは、自分の行動を持って子供達に夢を見せられる人のことを言う。
この言葉自体は受け売りだけれど、僕もそう思うし、そうであってほしい。
だから、荒波を「そこそこに」乗りこなせる程度の成長を、「大人になった」と表現したくはない。
前述の例で言うなら、「そこそこに」乗りこなすのではなく「徹底的に」乗りこなすか、「単に」溺れるのではなく「徹底的に」溺れていたい。
僕も例に漏れず平凡な人間だから、人並みに「世の中に対する齟齬」を感じていた。
自分が常識だと思っていることが世の中では思ったほど常識ではなかったり、僕が感じていることが世の中の人に言わせればズレていたりすることがよくあった。
世の中の人達が簡単に手に入れている(ように感じられていた)ものが手に入らなくて、泣きたいくらいに辛い夜を過ごしたことも、数え切れないくらいにあった。
そういった「齟齬」は、社会に出てそれなりの時間を過ごして、随分と減ったように思う。
減ってしまった。
世渡りが「そこそこに」できるようになってしまった。
妙に、楽になってしまった。
単に、「齟齬」を感じている暇がないのである。
今では仕事があるときは午前4時半くらいに起床するのが当然になっているし、睡眠時間が4時間を切っても疑問を感じなくなってきている。一日に15時間くらい働く日があっても、大して疲れたとも思わない。
それを普通のこととして処理している。
それが普通でなければならないと、無意識のうちに感じているのかもしれない。
僕はそれを成長だと思っていたけれど、最近になってようやく、そこに危機感を覚え始めた。
これは成長なんかじゃない。
妥協しただけだ。
何よりも大切な自分自身の感覚を、金と引き替えに世間に売り渡しただけだ。
「齟齬」を怖れてはならないと思う。
自分と世の中の間に生じる摩擦というのは、奴隷にならないために必要なエネルギーになる。
もちろん暴走させてはならないが、どうにもままならない苛立ちであるとか、痛みだとか、悲しみだとかに鈍感になってしまうのも、奴隷の始まりなのではないか。
思考を停止させるのは楽だ。とてもとても楽だ。
しかしそれで失われてしまう「何か」は、もしかしたら一生を賭けるに値する大切なものかもしれない。
苛立ちや、痛みや、悲しみも大切な貴方の感受性なのだから、絶やしてはならない。
「齟齬」から目を背けてはならない。
そういった側面に光を当ててみることが、自分の本当に望む未来への道標になるのかもしれないのだから。