CeLL=WiRED
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そうして私は野望を持つことにした。

 多くの人の願いが叶わない原因は、それがゴールになっているからだと思う。

 願いを叶えるための解決策なんて、少し探せばいくらでもあるはず(逆にいえば、解決策が全く浮かばないのであれば情報が足りない。まずはそこから)。
 悩みの本質は解決策が見つけられないことではない。
 いくつも提示される解決策から、一つを選ぶ「決断」ができないというところにある。

 決断をするためには「スタンス」というものが必要だ。言い換えればそれは理由付けであり、動機であり、取るべき立場のための思想。「何を以ってその決断を良しとするか?」の出発地点。

 ではスタンスは何から生まれるかというと、願いよりも先、ゴールの先からだ。それは現在の自分が考える最上の状態であり、すべての不可能性を排除したうえで見える世界観だと思う。

 ちなみに不可能性の排除というのは、「自分はこれくらいの人間だろう」という自己規定を一切無くし、全知全能の存在であるかのように仮定した場合、どうしたいかということ。逆説的ではあるけれど、それが自分の本質に近い姿になる。

 ゴールよりもさらに先の世界観を見ることができ、そこにいる自分を見ることができれば、その在り方がスタンスとなる。元々の願いだったものは手段に変わり、手段であればスタンスを取ることができる。

 たとえ話をしよう。
 サラダを食べたいという願望があるとする。解決策=手段はいくらでもある。自分で作ってもいい、店に行ってもいい。メニューにしても、グリーンサラダ、シーザーサラダ、ポテトサラダなど様々で迷う。

 そこで、「サラダを食べたい」の先に何があるのかを考える。栄養バランスを取りたいのか、単に美味しいものが食べたいのか。それがそのままスタンスになる。

 栄養バランスを取りたいというスタンスであれば、味の優先度を下げて、自宅で大量の野菜を使ってサラダを作るという選択肢が候補になる。
 美味しいものが食べたいというスタンスであれば、評判の店でドレッシングたっぷりのサラダを食べればいい。

 上のたとえ話でいえば、「では栄養バランスを取りたいというのが願いであればどうするのか」という疑問が出てくると思う。その場合は更に先、健康を維持したいという新たなゴールを出現させればいい。

 こうして、どんどんゴールは遠いものになっていく。しかしそれでいいのだと思う。
 そうやって遠大で、究極的な世界観を見ることで、日常の自分の行動に意味や意義を見いだせるようになるからだ。仮にその世界観が叶わなかったとしても、そのために過ごした日々は必ず充実したものになる。

 そこまで考えて、僕はタイトルの結論に至った。

やさしいひと。

 搾取される善人を見てきました。
 使い捨てられる優しい人を見てきました。
 何も得られなかった正義の人を見てきました。

 彼らはそれでも笑っていました。
 横で見ている僕は笑えませんでした。



 僕自身は基本的に感情よりも計算が先に立つし、あんまり他人に感情移入とかできない人間なので、自分が善人だなんて優しい人間だなんて口が裂けても言えないけれど、それでもやっぱりいろいろと眺めてきて、思うところはある。

 善行を積んだところで善い行いが返ってくるとは限らないし、
 人に優しくしたところで優しくしてもらえるとは限らないし、
 正義を遂行したところで悪が勝つこともたくさんある。

 残酷というか無情というか、冷たいことを書いていると自分でも思う。
 それでも、僕はそのように感じている。

 多分「何らかの形で報われるべきだ」という甘い考えのせいなんだろう。
 善人や優しい人や正義の人は、自分達の行いに相応しい幸福を得ていてほしいと思う。
 けれど僕自身、彼らのような人達に報いられているかというと、疑問が残る。
 自分が受けたたくさんの優しさを、ちゃんと僕は覚えているのだろうか?

 僕は、優しさは「趣味」だと考えている。
 義務や仕事にすると、意識的にでも無意識的にでも「いつか報われるさ」と期待して、その期待を裏切られ続けて、疲れてしまうだろうから。
 けれど趣味なら、それ自体が楽しいことだし、最初から対価を得ることは考えずに済む。

 最初から優しい人はきっと、そんなことはあまり考えずに、素のままで優しさを人に分け与えているのだと思う。推測でしかないけれど。

 ただ、優しい人になりたいと願って、誰かの力になりたいと思って努力している人は、どうかそれを自分の義務だとか仕事だとか、そういったものに しないでほしい。それはあくまで趣味であって、いつでもやめていいし、いつでもそうでなければならないわけじゃない。余裕のあるときに、気が向いたら、優 しくしてあげるだけでいい。

 そう思う。

 まあ中には「無理をするのも趣味」なんて人がいて、そういう人はもう存分に突き抜けちゃえばいいとは思うけれど。
 ハード設定にしないと気が済まない感じ。

 そうじゃない人は、細く長く優しさを人に分け与えてあげてほしいと思う。
 一人がたくさんの優しさを短い期間で使い果たして疲れ切ってしまうより、多くの人が小さな優しさをゆっくり積み上げた方が、より多くの幸福を生み出せるだろうから。

彼方の火。

 「同じことを繰り返しながら、違う結果を望むこと、それを狂気という。」 ――アインシュタイン


 ここ最近、今までの自分がしてこなかったいろいろな経験をたくさんしている。

 昨日は15名くらいの同期と一緒に、江ノ島の海で遊び倒してきた。海で遊ぶのなんて実は小学生以来だったりするので、如何にインドアな生き方をしてきたのか思い知らされる。
 台風が近づいているせいで波がメートル級の高さになっていて、僕は恥ずかしながらそのような海を浜辺で目撃するのは初めてだった。

 テンション、上がる上がる。

 父の転勤の都合で一時期田舎で生活したこともあるけれど、所詮は人生の大半をコンクリートで暮らしてきた身。周りにたくさんの人がいようと、実は大したことのない波であろうと(遊泳は許可されていたわけで。まあ怪我人いっぱい出たみたいだけど)、僕にとっては、他の誰でもなく僕自身にとっては、非常に興奮する自然の姿だった。

 時折同期からはぐれながらも、何かもうそんなことはどうでもよくて、押し寄せる波に頭から突っ込んで、波に翻弄されるのがとても苦しくて楽しかった。鼻に水は入るし大量の海水を飲んだ気がするけど、何故かなかなかやめられなかった。

 海に遊んでもらっている感じだった。時に訪れるより高い波に突っ込んだときは、もう上も下も右も左もわからなくなって、水中を何回転も転がされた。海へ戻る波と海から来る波がぶつかる瞬間に遭遇すると、予想もつかない水の流れが出来て、背骨が逆に反りかえりそうになったりした。ホント、よく怪我しなかったと思う(今でも腰が痛いけど)。

 童心に帰ったというよりは、100%子供だった。

 その後は人数がさらに増えて飲み会になり、何故か振りまでついた僕専用のコールが突然開発されて焼酎を一気する羽目になったり(冗談でやってるだけなので飲めなくても怒られないし僕はあんまり空気読まないので問題無い)、その後のカラオケオールではテキーラのショットをみんなで何杯も開けて、夏の曲を続けざまにかけて、飲んで歌って踊って暴れて大変なことになった。

 なんだかんだでまだまだ若いな……海で力使い果たしたあとなのに……(笑

 最終的には全員潰れて、朝に店の人に起こされたので、寮の同期を叩き起こして連れ帰った。酒には弱いけど分解が早いというか残らない体質に感謝。

 かつて思い描いていた社会人の姿とは程遠い楽しさ。というか、大学生と全く変わらない休日。僕の場合、大学の頃より遊んでいるような気がする。

 こうやって、少しでも僕の人生に色がつけばいい、と思った。
 ずっと憧れ続けている遥か彼方の火に近づければいい、と思った。
 あと、海に行ったせいか「彼女欲しいなぁ」とか思った。

 相変わらず、眠ると気が滅入るような悪夢ばかり見る。一体この健全極まりない好青年であるところの僕の精神がどうなっちゃってるのかはよくわからないけれど、いつか悪夢のループから脱け出せた暁には、今よりも上のステージに立てているのだと信じたい。

 おやすみなさい。
 また明日。
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