会えなくても、触れられなくても、
言葉を交わすことがなくても、
こうやって今、君と生きているんだよ。
一緒に過ごした時間に、どんなに背中を押されているか
君にはちょっと想像がつかないかもしれないけど。
いつもこうして、これからも一緒に生きるんだよ。
会えなくても、触れられなくても、
言葉を交わすことがなくても、
こうやって今、君と生きているんだよ。
一緒に過ごした時間に、どんなに背中を押されているか
君にはちょっと想像がつかないかもしれないけど。
いつもこうして、これからも一緒に生きるんだよ。
感性の表現と、言葉の表現について。
学部1年次に哲学の授業で、「わたしが死んでも夕焼けは赤いか?」という問いについて、是と思うか非と思うか、またその論理的な裏付けを求められた。自分は「赤くない」派で、わたしの知覚する夕焼けと赤とを結び付けられるのは、後にも先にもわたし一人だから、とした。つまり、わたし自身が「世界はこうある」と思っている通りに、周囲の人も世界を見ているとは限らないということ。色盲者は、色盲というよりも組み合わせ異常者なのではないかと考えた。
これはまた、芸術における作品と言葉の関係や、コンセプチュアル・アートの問題にも関わってくるように思う。作品を鑑賞するという作業には、作家の制作過程の追体験も含まれると思うのだが、コンセプチュアル・アートは鑑賞の、作品制作過程追体験としての側面を拡張したものにも見える。つまりここで作品は、物質もしくはパフォーマンスと、タイトル=コンセプトとの関係性を問うてくる。しかしここには決定的な逆説が生じる。物質/現象と言葉とを、(その作品において)的確に結びつけることができるのは、作品世界の創造者である作家ただ一人であるからだ。
もちろん、補う言葉がなければ鑑賞者は”真理”からより遠ざかってしまうのだから、言葉が作品に不可欠であることは否めない。こうして言葉と作品とは、接近したり離れたり、過去から未来に至るまで、永遠に結ばれない衛星同士のようにも見える。
言葉と、その対象の潜在的な距離感は、全ての人間に孤独という原体験をもたらしているようにも思う。
言われても、言われても気持ちのいい関係ってあるもんだ。
他の誰かに言われたら、一晩は落ち込んでしまいそうなことを。
叩かれても、叩かれても「言葉がやさしい」
先の丸い鈍器でなら、叩かれても自分はまた強くなれる。
次はもっと勉強してくるよ。君のためにやるよ。
どんなに成長しても、今度会ったらまた叩いてほしい。