会えなくても、触れられなくても、

言葉を交わすことがなくても、

こうやって今、君と生きているんだよ。

一緒に過ごした時間に、どんなに背中を押されているか

君にはちょっと想像がつかないかもしれないけど。

いつもこうして、これからも一緒に生きるんだよ。

感性の表現と、言葉の表現について。

学部1年次に哲学の授業で、「わたしが死んでも夕焼けは赤いか?」という問いについて、是と思うか非と思うか、またその論理的な裏付けを求められた。自分は「赤くない」派で、わたしの知覚する夕焼けと赤とを結び付けられるのは、後にも先にもわたし一人だから、とした。つまり、わたし自身が「世界はこうある」と思っている通りに、周囲の人も世界を見ているとは限らないということ。色盲者は、色盲というよりも組み合わせ異常者なのではないかと考えた。

これはまた、芸術における作品と言葉の関係や、コンセプチュアル・アートの問題にも関わってくるように思う。作品を鑑賞するという作業には、作家の制作過程の追体験も含まれると思うのだが、コンセプチュアル・アートは鑑賞の、作品制作過程追体験としての側面を拡張したものにも見える。つまりここで作品は、物質もしくはパフォーマンスと、タイトル=コンセプトとの関係性を問うてくる。しかしここには決定的な逆説が生じる。物質/現象と言葉とを、(その作品において)的確に結びつけることができるのは、作品世界の創造者である作家ただ一人であるからだ。

もちろん、補う言葉がなければ鑑賞者は”真理”からより遠ざかってしまうのだから、言葉が作品に不可欠であることは否めない。こうして言葉と作品とは、接近したり離れたり、過去から未来に至るまで、永遠に結ばれない衛星同士のようにも見える。

言葉と、その対象の潜在的な距離感は、全ての人間に孤独という原体験をもたらしているようにも思う。

言われても、言われても気持ちのいい関係ってあるもんだ。

他の誰かに言われたら、一晩は落ち込んでしまいそうなことを。

叩かれても、叩かれても「言葉がやさしい」

先の丸い鈍器でなら、叩かれても自分はまた強くなれる。

次はもっと勉強してくるよ。君のためにやるよ。

どんなに成長しても、今度会ったらまた叩いてほしい。

よしきた!

あと一週間。
モラトリアムのモラトリアム。
ゴミ捨てに赴いて、春だ…と思った。
この何というか、空気の均質な。
風が強い中にも、甘さのある温度。

私は私にレールを敷いてしまったけど、
もしくは敷いてみたんだけど、
”すみれ”のように生きてみたい、と時々強く思う。
無駄なこと全てを除いた、自分と対象だけの生活。
強く、純に、突き詰めていく。

最近また、あこがれがよぎった。
それは不思議と仕事でなく、生活に関してのことだった。
「こういう場所で、こういう生活してみたい」
すごく普通で、一人にっこりした。

走るのは、欲しいものがあるから。
もともと速かった脚が、この4年間の遅刻で
もっともっと速くなった。
この速さは、死への加速?
目指すものとの距離の収縮?

わからない

けど、走り出す。
焼きつける。

君が私を見て、私も君を見た。

たとえもう会えなくても、
いつでもそこへ戻ってこられるように。
花粉症で熱っぽい頭が呼び覚ます、
「カラフルな出来事」の増殖。

風邪か、恋か、どっちか。
夕暮れ時のフジテレビ本社を歩く。

タンゲという巨大な宇宙船の発射台。
主人を失った未来のお城。

何か、遺跡みたいな。
今日はものすごく久々に電話するのに、
迷わなかったよ。
やっぱり、酔っ払ってたからだと思う?

でも心なしか君も素直だったから、
夢でしか成り立ち得なかった
しがらみなしの世界を少し、見たような気がする。

自ら呪縛を解いたら、
またこうやって時々話をしたいな。

伝えたいことがまだまだいっぱいあるし、
心なしか君も素直だったから。
あなたが迷ったり、
悩んだり、
うまくいかなかったり、
カッコ悪いところを晒してしまったり、

しかし、真っ直ぐ歩いてはいてよ。
微塵も疑うことなく
その背中をついていく私がいるんだから。