感性の表現と、言葉の表現について。

学部1年次に哲学の授業で、「わたしが死んでも夕焼けは赤いか?」という問いについて、是と思うか非と思うか、またその論理的な裏付けを求められた。自分は「赤くない」派で、わたしの知覚する夕焼けと赤とを結び付けられるのは、後にも先にもわたし一人だから、とした。つまり、わたし自身が「世界はこうある」と思っている通りに、周囲の人も世界を見ているとは限らないということ。色盲者は、色盲というよりも組み合わせ異常者なのではないかと考えた。

これはまた、芸術における作品と言葉の関係や、コンセプチュアル・アートの問題にも関わってくるように思う。作品を鑑賞するという作業には、作家の制作過程の追体験も含まれると思うのだが、コンセプチュアル・アートは鑑賞の、作品制作過程追体験としての側面を拡張したものにも見える。つまりここで作品は、物質もしくはパフォーマンスと、タイトル=コンセプトとの関係性を問うてくる。しかしここには決定的な逆説が生じる。物質/現象と言葉とを、(その作品において)的確に結びつけることができるのは、作品世界の創造者である作家ただ一人であるからだ。

もちろん、補う言葉がなければ鑑賞者は”真理”からより遠ざかってしまうのだから、言葉が作品に不可欠であることは否めない。こうして言葉と作品とは、接近したり離れたり、過去から未来に至るまで、永遠に結ばれない衛星同士のようにも見える。

言葉と、その対象の潜在的な距離感は、全ての人間に孤独という原体験をもたらしているようにも思う。