サントリー美術館にて開催中の『紅型 BINGATA~琉球王朝のいろとかたち~』展にて
共立女子大学の長崎巌先生による講演会がありました。長崎巌先生と
この紅型展は会期中に3回の展示替えがあるので、度々ミッドタウンに足を運ぶことになりそう。
今回のテーマ『日本の染織と紅型の意匠』は、このところ紅型関連の展覧会を見ていて思っていた、
「古紅型に日本的な意匠(モチーフ)が多いのどうしてなのか?」という疑問に関しての
長崎先生の仮説をお聴きし、まさに目からウロコ(-_\)(/_-)三( ゚Д゚)でした
自分が紅型に魅かれる理由にも思い当たることがありました。
『きものカンタービレ♪』への掲載許可はいただきましたが、「ほどほどでね…」とのことなので、
ザックリとレポします
結論から申しあげますと、
「紅型は日本の染織の影響を受けている、それは同じ染物でなくて紋織物の唐織を手本と
して生まれたと仮定することができる」というもの
染織技法に対する価値観というものがあり、庶民と支配階層では衣服が異なります。
それは意匠だけでなく技法にも現れます。
紅型の技法には大きく分けると二種類あります。
※技法については、中期展示の鑑賞後に別記事でまとめます。
●筒描き染紅型(筒糊から絞りだした糊で防染)
うちくいといわれる風呂敷などの生活用品に用いられたので現存数は少ない。
18世紀の日本でも布団地や幕、万祝などの庶民の染織品にはこの技法がつかわれている。
●型染紅型(型紙で糊防染)支配階層の衣服として用いられたので琉装の衣裳に見られます。
日本では、平安時代、支配階層の公家の装束は絹の紋織物がつかわれていました。
武士の台頭によって、衣裳に活動性と耐久性が求められ、型絵染が紋織物の代替的な技法
として出現します。→例)甲冑の踏込型には円紋や有職紋の型染がみられる
武家は公的な場では紋織物を着用し、日常生活は庶民同様に無地や絞染を、実用性が求め
られる用途には型染をつかうことになっていきます。→例)裃
紅型の成立時期は18世紀中頃ではないかと考えられているのだそうで、日本の染織技法の
価値観が琉球の支配階級に影響を与えていたと推測すると、琉球の支配階級は、日本の
能装束の唐織のようなものの代替として、型絵染の紅型を生みだしたのではないかという
仮説が成り立つのだそうです。
琉球紅型が舞の装束としてつかわれていることを考えても納得できます
唐織から型染紅型になった理由は、紋織物の技法が琉球に定着していなかったこと。
琉球には花織など浮織りはあっても錦のようなものはありません。それは気候が関係しています。
唐織は生地が厚く、暑い南国には向かないので、型染めの紅型を生みだしたのではないかとのこと。
図案から紋図をおこしてつくる紋織物と図案から型紙をつくって染める紅型の型紙には、同模様を
反復させる技法とう共通点があります。
紅型に見られる意匠、確かに唐織と似ているものがたくさんあります
私、紅型好きですが、唐織も大好き~♪
型紙は模様を量産目的と考えられがちですが、量産されるのは貨幣経済が発達して
中産階級がでてからのことだそうで、反復が量産に結びついたわけではないのだそうです。
型紙はあくまでも技法のひとつだったということです。
※抜粋しているのでわかりにくくてごめんなさい。
詳細は紅型展の図録にも掲載されているので、そちらをご参照くださいませ。
長崎先生の紅型考察論、なるほどー(ノ゚ο゚)ノと思うことたくさんありました。
染織の成り立ち、由来は、きものが生活に密接に結びついているものだけに、歴史的背景
を照らし合わせてみていくと、さらに面白いです
う~ん、もっと勉強したいなあ。。。
【6月24日の装い】
昨日は薄物だったのですが、日差しがイマイチなので単衣に戻しました。
紅型展にあわせて、藍型の単衣小紋に波に燕の刺繍された絽塩瀬の帯をコーディネート。
紅型は多色な顔料と天然染料で染められますが、藍と墨の濃淡による染めのものを
藍型といいます。
波に燕の刺繍された帯は大のお気に入り
塩瀬地の色、糸の色も指定してつくっていただきました。
バッグはジャマン・ピュエッシュ、パナマのぞうりは四谷・三栄
共立女子大学の長崎巌先生による講演会がありました。長崎巌先生と
この紅型展は会期中に3回の展示替えがあるので、度々ミッドタウンに足を運ぶことになりそう。
今回のテーマ『日本の染織と紅型の意匠』は、このところ紅型関連の展覧会を見ていて思っていた、
「古紅型に日本的な意匠(モチーフ)が多いのどうしてなのか?」という疑問に関しての
長崎先生の仮説をお聴きし、まさに目からウロコ(-_\)(/_-)三( ゚Д゚)でした
自分が紅型に魅かれる理由にも思い当たることがありました。
『きものカンタービレ♪』への掲載許可はいただきましたが、「ほどほどでね…」とのことなので、
ザックリとレポします
結論から申しあげますと、
「紅型は日本の染織の影響を受けている、それは同じ染物でなくて紋織物の唐織を手本と
して生まれたと仮定することができる」というもの
染織技法に対する価値観というものがあり、庶民と支配階層では衣服が異なります。
それは意匠だけでなく技法にも現れます。
紅型の技法には大きく分けると二種類あります。
※技法については、中期展示の鑑賞後に別記事でまとめます。
●筒描き染紅型(筒糊から絞りだした糊で防染)
うちくいといわれる風呂敷などの生活用品に用いられたので現存数は少ない。
18世紀の日本でも布団地や幕、万祝などの庶民の染織品にはこの技法がつかわれている。
●型染紅型(型紙で糊防染)支配階層の衣服として用いられたので琉装の衣裳に見られます。
日本では、平安時代、支配階層の公家の装束は絹の紋織物がつかわれていました。
武士の台頭によって、衣裳に活動性と耐久性が求められ、型絵染が紋織物の代替的な技法
として出現します。→例)甲冑の踏込型には円紋や有職紋の型染がみられる
武家は公的な場では紋織物を着用し、日常生活は庶民同様に無地や絞染を、実用性が求め
られる用途には型染をつかうことになっていきます。→例)裃
紅型の成立時期は18世紀中頃ではないかと考えられているのだそうで、日本の染織技法の
価値観が琉球の支配階級に影響を与えていたと推測すると、琉球の支配階級は、日本の
能装束の唐織のようなものの代替として、型絵染の紅型を生みだしたのではないかという
仮説が成り立つのだそうです。
琉球紅型が舞の装束としてつかわれていることを考えても納得できます
唐織から型染紅型になった理由は、紋織物の技法が琉球に定着していなかったこと。
琉球には花織など浮織りはあっても錦のようなものはありません。それは気候が関係しています。
唐織は生地が厚く、暑い南国には向かないので、型染めの紅型を生みだしたのではないかとのこと。
図案から紋図をおこしてつくる紋織物と図案から型紙をつくって染める紅型の型紙には、同模様を
反復させる技法とう共通点があります。
紅型に見られる意匠、確かに唐織と似ているものがたくさんあります
私、紅型好きですが、唐織も大好き~♪
型紙は模様を量産目的と考えられがちですが、量産されるのは貨幣経済が発達して
中産階級がでてからのことだそうで、反復が量産に結びついたわけではないのだそうです。
型紙はあくまでも技法のひとつだったということです。
※抜粋しているのでわかりにくくてごめんなさい。
詳細は紅型展の図録にも掲載されているので、そちらをご参照くださいませ。
長崎先生の紅型考察論、なるほどー(ノ゚ο゚)ノと思うことたくさんありました。
染織の成り立ち、由来は、きものが生活に密接に結びついているものだけに、歴史的背景
を照らし合わせてみていくと、さらに面白いです
う~ん、もっと勉強したいなあ。。。
【6月24日の装い】
昨日は薄物だったのですが、日差しがイマイチなので単衣に戻しました。
紅型展にあわせて、藍型の単衣小紋に波に燕の刺繍された絽塩瀬の帯をコーディネート。
紅型は多色な顔料と天然染料で染められますが、藍と墨の濃淡による染めのものを
藍型といいます。
波に燕の刺繍された帯は大のお気に入り
塩瀬地の色、糸の色も指定してつくっていただきました。
バッグはジャマン・ピュエッシュ、パナマのぞうりは四谷・三栄