なぜ台湾の言語規範は緩いのか | 台湾華語と台湾語、 ときどき台湾ひとり旅

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台湾の言語規範問題


台湾には言語規範の緩さと、規範と実際の言語現象との乖離という問題があります。これは、台湾で「中国語(国語/華語)」を外国人に教える仕事をなさっている方にとっては、本当に頭の痛い問題だと思います。


なぜそのような問題があるのでしょうか。今日はまず、規範の緩さの原因を考えてみたいと思います。言語規範の緩さは教育現場にとっては不便ですが、その原因は決して台湾当局の怠惰や能力不足ではないと思います。



現状維持の続く台湾の言語規範

 

実はこれまで台湾の「中国語(国語/華語)」も細かい規範の変更や修正、整備は行われてきました。が、総体的に見ると、長い間「現状維持」が続いています。これは中国大陸の規範の整理状況に比べると本当に顕著です(詳細は省く)。特に民主化の動きが出はじめてからの台湾においては、言語規範の整理の試みが成功を収めることはほぼありませんでした。「通用ピンイン」の問題もそうですし、「一字多音字」問題もそうです。理由は大きく二つあると思います。



理由1 エスニシティの多様性と利害関係の複雑さ


一つは台湾のエスニシティの多様性と利害関係の複雑さです。例えば上から言語計画の変更(言語規範の修整等)が示された場合、受け入れる側の多様性がそれを撥ね付けるのです。エスニシティと言語問題が密接に結びついている台湾において、ほとんどの言語計画(言語規範の修整等)が、あるグループにとっては有利でも別のグループにとっては不利であるといったことが多いからです。ものすごく極端な例を出せば、例えば「台湾語」を準公用語にする、というような決まりを作ろうとしても、「台湾語」母語話者以外のグループは強硬に反対するでしょう。その声を押さえ込んで法律を通すような強権力は、現在の台湾には存在しません。

 

下からの要求という視点で考えても同様です。複雑に屈折した台湾のナショナルアイデンティティは利害関係の複雑さを生み、言語計画のあり方も何が自分にとって利なのか害なのか、簡単にはわからない状況があるのです。「台湾人」でもあり中華文化の担い手でもあり、国際化も望めば繁体字にも誇りを感じる。そのようなアイデンティティにとって、どのような言語規範ならいいのか。


捲舌音を規範にするのがいいのか悪いのか、もっと軽声を増やすべきなのか、“和”は“he”と読むのがいいのか“han”と読むべきなのか。「国語」は「国語」と言うべきなのか、言わない方がいいのか・・・。


政治や言語の専門家でない限りそう簡単に利害は判断できないでしょう(もちろん各人好き嫌いはあるでしょうが)。そのために言語計画、言語規範に対する要求はまとまったものとなりにくく、その結果また「現状維持」に落ち着いてしまうのだと思われます。

 

 

理由2 言語社会の抑圧の歴史


もう一つの理由はやはり、台湾の言語社会が歩んできた抑圧の歴史でしょう。日本植民地の時代も含め台湾の言語は長い抑圧の歴史の中にありました。多くの犠牲を払って手にした現在の自由を失いたくないという台湾の人々の思いは強く、「自分」ではない「だれか」に方向を決められることへの不安、「だれか」にどこかに連れて行かれることへの不安は相当なものがあるはずです。その危機感が、強権力を発動して言語規範を整えることへの拒否感につながっているのではないでしょうか。

 


規範の緩さは自由と多様性の証


しかしながら、現在の台湾における言語規範の緩さは、ある意味「自由」と「多様性」の証明でもあります。強権力による統一規範を押し付けられるくらいならば、たとえ少々の不便はあったとしても、自由と多様性を享受できる現在の状況の方が、台湾の人々には受け入れやすいのかもしれません。個人的には、今後も台湾の言語社会がただ「効率」のために、自由や多様性を犠牲にすることはない気がしています。



学ぶ側も謙虚に、寛容に

 

だから、台湾の言語を学んでいる私達も、謙虚な姿勢でそして寛容な心で学ぶ必要があるのではないでしょうか。規範が緩いのは確かに不便ではあるけれど、それは自由と多様性の証。自由と多様性を大切にする台湾を愛するのなら、多少の不便や回り道も許せるはずだと思います。