言語規範問題、台湾の研究者も悩んでた! | 台湾華語と台湾語、 ときどき台湾ひとり旅

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言語規範と現実との乖離とは


台湾の言語規範は、1945年に持ち込まれた「中国語」からの大筋「現状維持」が今も続いています。民主的で自由で多様性に寛容な台湾だからこそ、言語規範の統一、整理、変更には大きな困難が伴うからです。

これがどういうことにつながるか。そう、「規範と実際の言語現象との乖離」です。台湾では多くの人が捲舌音や軽声の超絶少ない「台湾華語」を話していて、日常的に紅紅的、怪怪的、用走的、用跑的と言っているのになぜ教科書はそうなってない⁉なぜ外国人に教える時にことさら舌を巻いて発音する⁉(ほんの1例です!)といった問題です。

しかし、この問題に言語学者や教育者や当局が気づいていないはずもなく、実は早くから多くの人が問題提起し議論されてきたのです。



80年代から見られる研究者の葛藤と苛立ち


規範と現実との乖離に対する研究者の葛藤や苛立ちは80年代からすでに見られます。なぜ自分たちの言葉、それもすでに「既成事実としての規範」である言葉が、何年経っても規定的規範に取り入れられないのか。そのような苛立ちやです。 

湯廷池(1981)

例えば湯廷池(1981)では、当時すでに台湾人の多くが使用するようになっていた“他有没有来?”方式の構文についてはっきりと「変化」であると認めています。そしてそれは「国語」の反復疑問文の規則や「一般化」「規則化」「単純化」という言語本来の志向にも則っており、「この変化はたとえ閩南語の影響を受けなかったとしても起きたであろう」と分析し、規範主義者のかたくなな態度を次のように批判します。

古代漢語から現代の国語に至るまで、このように変化の過程を経て作られてきたものだ。現在「中国語浄化運動」を主張する人はこの点を理解すべきであり、(新しい言語現象の)現代国語文法、語の意味、語用上の機能およびこの機能が話者の心中に占める「心理的実在性」を客観的に研究すべきである。ただ主観的な好き嫌いによってのみこれらの言語現象に反対したり攻撃したりするのでは、まったく何の役にも立たない。(湯廷池1980:64~65)


魏岫明(1984)

魏岫明(1984)になると、台湾における「中国語」の音韻的・語彙的・文法的な変化の実態を明らかにした上で、「すでに台湾には50年前に定められた規範とは異なる基準を有した『国語』が存在する」と断定し、さらに「国語」の規範が実態に即していないことについて、次のように指摘しています。

国語の発音には確かに準拠すべき基準がある。しかし問題は、言葉は生きており、時間とともに自然に変化していくということだ。(中略)(基準が定められた1932年から)すでに50年が経過しており、その間に国語の発音には大きな変化が生じている。特に台湾では捲舌音が消失の趨勢にあるのは確かな事実である。我々は新しい環境、新しい時間の中に生きているのに、50年も前に定められた基準を規範とする必要があるのだろうか。

 

羅肇錦(1990)

羅肇錦(1990)は規範と実態との乖離に対しはっきりと苛立ちを露わにしています。

台湾で生まれ育った人が共時的観点から台湾の言語を見るとき、いわゆる「国語」とは『台湾国語』のことをさす。『台湾国語』はすでに北平話(北京語)とは大きく異なっている。(中略)北平話の特徴をもって学生に要求するのは、学生を困惑させること甚だしい。(中略)言語の安定的標準化の必要性は認めるが、同時に変化発展してゆく必要性も認められるべきである。(中略)しかしながら本書は保守的態度で執筆し、北平話を標準として各章構成し、現在の台湾における国語の実態通りには書かれていない。この問題が今後重視されることになり、第二版を出すときには台湾の現実の言語状況に沿った『国語学』が書けることを希望する。


曹逢甫(1991)

曹逢甫(1991)においても、言語実態に即した「標準国語の新しい規定」を期待する旨が述べられています。

趙元任先生は、50年以上も前に既に気付いていた。いわゆる「標準音」が時宜にあっているわけではないことに。今日、さらに多くの人が気付いている。辞書の中の「標準国語」は全く時代に追いついていないことに。ことばは生きている。ことばは進歩するものであり、実用的なものである。古くなった規範は早く新しくされるべきである。


曾心怡(2003)

曾心怡(2003)では馬英九氏の使う「国語」を「標準的な『台湾国語(現在で言うところの「台湾華語」、以下同)」であると位置づけています。なぜなら「台湾人が認める規範に合っているから」です。軽声の少なさ、捲舌音の少なさ、“有VP”、“有没有VP”、台湾の人々にとっては、いずれも「こんな風に話さなかったら、じゃあいったいどう言えばいいの?」という発音であり表現だと言います。

Huang Hsin-hui(1995)が「教育程度の低い人がよく使う」と分析した“用V的”も“V看看”も、師範大学大学院の宿舎ではほとんど毎日耳にするし、そのような「台湾国語」はもはや「国語」をちゃんと話せない教育程度の低い人の言葉ではない。台湾語母語話者が台湾国語を話すだけではなく、あらゆる族群が台湾国語をもって台湾にアイデンティファイするシンボルとなすであろう。(中略)外国人に「中国語」を教える際に、何を基準として教えるか、現実の状況も考慮した統一の規範が必要である。



…と、規範変更を望む立場の意見を見てきましたが、実際には台湾には色々な立場の人がいます。伝統的な「正しい」「国語を」守って行くべきだと考える人ももちろんいますし、国際化・経済性という実利を優先するという理由で、中国の普通話に近づけるべきだと主張する人もいます。


対外華語教育の苦境


規範と現実が乖離していても一般の台湾人にはあまり関係ありません。普通に生活している分には言葉の規範はそれほど必要ではないからです。台湾の人々は「規範」は「規範」として神棚に供えておき、現実の言語世界では実に自由に動き回ります。中国語のバリエーションだけじゃない、台湾語も客家語も英語も日本語も奔放にミックスしそれを相手によって、或いは信念に基づいて、巧みに使い分けるのです。

ただ、台湾で言語を学ぶ、教える立場の人にとっては本当に大変です。特に対外華語教育の現場の苦労は想像するに余りあります。台湾で外国人に教える「中国語」はどのような「中国語」であるべきなのか。台湾的な「中国語」を教えるべきなのかそうでないのか。中国の普通話に近づけるべきなのか違うのか。伝統に沿うべきか今を優先すべきか…。これはもう言葉の問題というより、「台湾とは何か」という問題ーー政治の問題なのですから。


台湾の言語を学ぶのは超絶楽しい


それでも台湾の言語を学ぶのは本当にエキサイティング。自由で、多様性に満ちた魅惑の世界に足を踏み入れることができるからでしょうね。台北の街で押し寄せる台湾華語と台湾語の波。そこにザブンと飛び込んで漂うときのあの感覚は、思い出してもドキドキするくらい楽しいです。

テキストできっちり基本を身につけて台湾の人たちとコミュニケーションを取る方法を学んだら、街に出よう!規範と現実を行ったり来たりしているうちに、台湾の言葉の海を自由に泳ぎ回れるようになれるかもしれないと信じて。