エリート意識のせいでパワハラを止められない
電通のような大企業で、パワハラが当たり前に行われていました。
「根性」とか「気合」とか「死ぬ気」などの言葉に置き換えられて、「社内の秘められた正義」として社員に強要されていました。
そんな会社は例外だと思いますか?
いいえ、全然例外ではありません。
社員が、
「これはパワハラです」
と、手を挙げなければ、パワハラの問題は表には出てきません。
電通は、短い期間に二人も自殺者が出たから表沙汰になったにすぎません。
若い社員が、仕事に疲れ果て、自ら死を選ぶまで、
「社の体質に問題がある」
と、いう言葉が中から出ない状況って、かなり危険だと思いませんか?
でも、日本のサラリーマンの大半は、そんな危険な状況で仕事を続けているのです。
ご自分の置かれている状況は、まともですか?
お勤めの会社が電通のような大企業だと、そこで働く大多数の社員の中には、エリート意識があります。
パワハラの蔓延を防げない原因のひとつが、このエリート意識でもあるということに、お気付きですか?
エリートの地位は、努力なしで手に入れることはできません。
学生の頃からやりたいことを我慢して、人よりもより多くの勉学に励み、将来の夢をより現実のものへと引き寄せるために、不断の努力を重ねた末にたどり着いた地位なのです。
どんな辛い時期にも耐え、いくつもの高い壁も乗り越えられたこそゆえのエリートという地位なのです。
そのエリート意識を語らずも代弁してくれているのが、社名であったり、名刺であったりするのです。
そして、その組織の中でさらなる上を目指す。
周りの社員も全員そんな連中ばかりですから、全員が競争相手、ライバルです。
しかし、彼らにはその競争にも勝ち上がってきたという過去の実績とプライドがあります。
少々の辛いことくらいで、みすみす手放すことなんて到底できないのです。
もちろん、会社もそんな社員の意識をより強くするように、エリートを意識させるような教育と実践を続けます。
その方が便利ですからね。
辛いことへの耐性もより強くなる。
社会の荒波は、今まで彼らが経験してきた荒波の比ではありません。
少々の辛いこと?
とんでもない。
大人のいじめは、子供のいじめのようにはわかりやすくない。
大人は狡猾です。
それこそ、本人ですら気づかないうちに心を、体を蝕んでいきます。
それほど巧妙に仕掛けられた罠なのです。
「この責任はどう取るつもりなんだ!?」
この言葉に胃を何度抑えたことでしょう。
でも、本当にその責任は若い自分にあるのか?
それを冷静に分析する余裕すら与えられない。
次から次へと仕事は増えて行く。
「これはパワハラ?」
気付いた時には、
「でも、わたしが悪い・・・」
そう思い込むように仕向けられています。
「でも、やめたくない・・・・。やめると周りの社員に迷惑がかかる。もっと頑張らないと迷惑がかかる。迷惑をかけたくない・・・」
「そうだよ。迷惑がかかるんだよ!」
「そうですよね。迷惑をかけたくない・・・・」
本当に迷惑をかけてますか?
所詮、会社の仕事ですよ。
迷惑をかけたっていいじゃないですか?
迷惑をかけたって、会社はなんの問題もなく回っていきます。
その会社を辞めたところで、会社はなんの問題もなく回っていきます。
やめたって、あなたにはいくらでも仕事があります。
今の時代、心と体さえ健康であれば、
そんな大企業で働いていた時よりも数十倍、素敵な人生が待ち受けているのです。
いや、お慰みでも、適当に言っているわけでもありませんよ。
だって、世の中がそれを証明しているじゃないですか?
「転職をして、前よりも辛い人生を歩むことになった」
と、言っている人、あなたの周りにどれだけいますか?
あまりいないはずですよね?
自分が自分がいられるための覚悟
わたしなんて、エリートでもなければ根性もない。
肩書きもなければなんの後ろ盾もない。
体を壊したらその時点で食いっぱぐれます。
でも、25年間、充実した人生を送れています。経済的にも人並み以上の生活をしてきました。
なぜか?
なんのストレスも感じてないからです。
誰に対する怒りもないし、誰からも叱責されることもない。
できないことを強要されることもない。
やりたいことだけをやってきました。
やりたいことだけをやっても、食べていけるんです。
それはわたしにそのような能力があったから?
そうですよ!
わたしはパワハラに負けない覚悟をしたし、その都度戦っています。
人から支配されない。人を支配しない。自由であるために。
戦いました。
わたしはフリーです。
社会的な立場ということで言えば、フリーなんてちょー弱い立場です。
組織で言えば、末端です。
記事の掲載でミスも起こります。
そんな時、末端である現場に責任を押し付けられる。
そんなこと日常茶飯事です。
例えば、かつてこんなことがありました。
日本中のマスコミが集まる大きな事件が起きました。
連日、現場は大騒ぎ。
でも、マスコミが追う当事者は一向に現れず、最初はお祭り騒ぎだった現場のマスコミも徐々に減り、24時間3交代体制で現場に張り付いていた私たちのチームも編集部の命令で少なくすることになりました。
現場の記者はそれに抵抗しました。
しかし、担当の編集者は、
「他にもやらなければならない現場があるから解体することに決まった。すぐに他の現場に移ってくれ」
と。そして、現場を引き上げようと離れた瞬間、当事者が現れたのです。
写真もコメントも取れなかったのは我々だけ。
速報ニュースで知った編集者は慌てて電話をしてきました。
「どうだった?撮れた?」
状況を伝え、露骨に落胆と不満を口にする編集者。
そして、編集部に戻れと言われ、記者とカメラマンを待ち受けていたのは上からの事情聴取です。その事情聴取には担当編集者はいません。
「記者の中で誰に責任があるのか?」
そう問われるのです。こうも言われました。
「担当編集者が引き上げの指示を出した。それも間違いではあると思う。しかし、現場のことは記者が一番分かっているんだ。他が撮れていてうちだけ撮れていないということが問題なんだ。つまり、記者の責任が一番大きい」
そんなことあえて言われなくても、誰も「編集者に責任がある」とは思っていません。もちろん、わたしもです。
記者は現場のことだけを考えていますから。自分たちが結果を出せなければ、それはもちろん現場の責任なのです。
仮に編集者に一番責任があると思っていても長年の習性で、何か問題が起きると、
「責任は現場にある」
と、いうことが刷り込まれているから編集者の責任になることはありません。
それをプロ意識という考え方もあろうかと思いますが、わたしは、それは間違いだったと、ある時、気づきました。
責任の所在は、常に明確にすべきなのです。
