『風の中の家』
崖の上の家は風に包まれていった
びゅうびゅうと秋が深まって音を立て
日に日に風は冷たくなっていく
そのせいかハクが現れる頻度は少しずつ減って
新しく住人となった少女は話し相手を失った
あのひとは相変わらず誰に対しても外交的であり続けたけれど
僕はどうしても自分のほうから話しかけられずにいた
この突然の交代劇をどうしても承諾できなかったからだ
そして彼女は
ときどき挑戦的ですらある単刀直入さには似合わず
意外にも言葉少ない性格のようだった
いや無口だというだけでなく
彼女は物静かな人間であるようにさえ見えた
彼女の鏡像のように踊ることもなければ
奇矯な行動に出ることもない
どこか普通でないところがあるとしても
それはときどきふっと訪れるハクと話し込むくらいで
その他の点では彼女は本当に
おとなしくて知的な少女といった様子を
微塵も崩さずに毎日を過ごしていた
彼女に出かけるべき場所はなく
一日のほとんどは一階のリビングのソファか
でなければ庭に出て海を眺めている
そして彼女の方から僕に話しかけてくることはほとんどない
そういう有様に段々と僕は
痛みの混じった息苦しさを感じ始めた
いったいこれはどういうことなのだろう
僕は彼女に対してどうすればいいのか
いやどうしなければいけないのか
そんなある日
単に郵便受けを覗いただけだったのか
あるいは愉しみにしていたらしい外科医の車がやってこないか
見に行ってたまたま郵便配達に出くわしたのか
彼女は一通の封筒を手にして僕のところにやってくると
「Mさんから」
とだけ言って手渡し
「お願いがある」と少し不安げな目で僕を見た
僕の声は少し震えていただろうか
「僕にできることがあるなら」と言うと
「何か何でもいい
本を貸してもらえない?」
残念なことに僕は多量の本の所有者ではあったけれど
ここには一冊も持ってきてはいなかった
引っ越すことになればと考えてもいたが
それも結局必要がなくなって宙に浮いた
だから僕はその要望に応えられない
今は是非にも応えたかったのだけれど
それを横目で見ていたあのひとが口を挟む
「どんな本を読むのかね」
「何でも 字が書いてさえあれば」
「活字に飢えてでもいるみたいな言いようだな
新聞は駄目かね」
あのひとはテーブルに置いて読んでいた横文字の新聞の端を
ちょこんとつまみ上げて示しながら言う
「本 本でなければ 本がいいの」
その言い方にはどこか切羽詰まった響きがあって
あのひとと僕は顔を見合わせる
「そういうことなら」そう言ってあのひとは立ち上がり
「私の本でよければ
こっちに来なさい
書庫で好きなものを探せばいい」
それを聞いて彼女は少し嬉しそうな顔つきになり
あのひとについていく
その間に僕はMの手紙の封を切る
「引っ越しもほぼ完了して母もだいぶ落ち着いたみたい
私にもここにいたらどうかとはもう言わなくなった
いろいろ考えているらしいけれど
そんなに遠い世界でもないし
いつでも来られるわけだし
一週間か十日くらいしたら
私そちらに戻るつもりなのだけれどいい?」
そこまで読んで初めて僕は気づく
これまでの経緯を誰もまだMには伝えていなかったのだ
ここは平和ではない
安全であるという雰囲気もかなり怪しげだった
奇妙な事態の推移でやむを得ず僕たちはこうしている
そういう中にMが戻ってくるのは
彼女のためにいいことなのだろうか
僕には全くわからなかった
手紙のその先はいつものMらしい終わり方だった
「いいかって聞いたところでどうなるってことじゃないわね
まだ未踏ちゃんやAさんがそちらなら会いたいし
日時がはっきりしたら電話でもする」
不思議なことになぜかMは
ダフネと僕について何も書いていなかった
それだけMにとってこちらは「相変わらず」なのだろうと思って
僕はまた少し動揺する
それに相変わらずメールという手段をMは考えようともしない
けれどMが戻ってくれば
確実に僕たちの助けになるだろうとも思う
それにおそらくもうこれは
動き始めてしまっていることになるのだろう
そう考えなおしたところへ
老人と少女がふたりとも何事か嬉しいことでもあったような顔をして
書庫から戻ってきた
ダフネの鏡像は手に持ったかなり古そうな本を僕に見せる
あのひとが「こんな本が読みたいとは少しばかり驚いた」と言う
彼女の手にあったのはルナールの『博物誌』だった
おそらくは彼女が生まれる前
いや僕が生まれるよりも前の本なのかもしれない
半透明の紙のカヴァーに包まれていて
丁寧に維持されてきたものに見えたが
そのページのくすんだベージュ色から
崖の上の家は風に包まれていった
びゅうびゅうと秋が深まって音を立て
日に日に風は冷たくなっていく
そのせいかハクが現れる頻度は少しずつ減って
新しく住人となった少女は話し相手を失った
あのひとは相変わらず誰に対しても外交的であり続けたけれど
僕はどうしても自分のほうから話しかけられずにいた
この突然の交代劇をどうしても承諾できなかったからだ
そして彼女は
ときどき挑戦的ですらある単刀直入さには似合わず
意外にも言葉少ない性格のようだった
いや無口だというだけでなく
彼女は物静かな人間であるようにさえ見えた
彼女の鏡像のように踊ることもなければ
奇矯な行動に出ることもない
どこか普通でないところがあるとしても
それはときどきふっと訪れるハクと話し込むくらいで
その他の点では彼女は本当に
おとなしくて知的な少女といった様子を
微塵も崩さずに毎日を過ごしていた
彼女に出かけるべき場所はなく
一日のほとんどは一階のリビングのソファか
でなければ庭に出て海を眺めている
そして彼女の方から僕に話しかけてくることはほとんどない
そういう有様に段々と僕は
痛みの混じった息苦しさを感じ始めた
いったいこれはどういうことなのだろう
僕は彼女に対してどうすればいいのか
いやどうしなければいけないのか
そんなある日
単に郵便受けを覗いただけだったのか
あるいは愉しみにしていたらしい外科医の車がやってこないか
見に行ってたまたま郵便配達に出くわしたのか
彼女は一通の封筒を手にして僕のところにやってくると
「Mさんから」
とだけ言って手渡し
「お願いがある」と少し不安げな目で僕を見た
僕の声は少し震えていただろうか
「僕にできることがあるなら」と言うと
「何か何でもいい
本を貸してもらえない?」
残念なことに僕は多量の本の所有者ではあったけれど
ここには一冊も持ってきてはいなかった
引っ越すことになればと考えてもいたが
それも結局必要がなくなって宙に浮いた
だから僕はその要望に応えられない
今は是非にも応えたかったのだけれど
それを横目で見ていたあのひとが口を挟む
「どんな本を読むのかね」
「何でも 字が書いてさえあれば」
「活字に飢えてでもいるみたいな言いようだな
新聞は駄目かね」
あのひとはテーブルに置いて読んでいた横文字の新聞の端を
ちょこんとつまみ上げて示しながら言う
「本 本でなければ 本がいいの」
その言い方にはどこか切羽詰まった響きがあって
あのひとと僕は顔を見合わせる
「そういうことなら」そう言ってあのひとは立ち上がり
「私の本でよければ
こっちに来なさい
書庫で好きなものを探せばいい」
それを聞いて彼女は少し嬉しそうな顔つきになり
あのひとについていく
その間に僕はMの手紙の封を切る
「引っ越しもほぼ完了して母もだいぶ落ち着いたみたい
私にもここにいたらどうかとはもう言わなくなった
いろいろ考えているらしいけれど
そんなに遠い世界でもないし
いつでも来られるわけだし
一週間か十日くらいしたら
私そちらに戻るつもりなのだけれどいい?」
そこまで読んで初めて僕は気づく
これまでの経緯を誰もまだMには伝えていなかったのだ
ここは平和ではない
安全であるという雰囲気もかなり怪しげだった
奇妙な事態の推移でやむを得ず僕たちはこうしている
そういう中にMが戻ってくるのは
彼女のためにいいことなのだろうか
僕には全くわからなかった
手紙のその先はいつものMらしい終わり方だった
「いいかって聞いたところでどうなるってことじゃないわね
まだ未踏ちゃんやAさんがそちらなら会いたいし
日時がはっきりしたら電話でもする」
不思議なことになぜかMは
ダフネと僕について何も書いていなかった
それだけMにとってこちらは「相変わらず」なのだろうと思って
僕はまた少し動揺する
それに相変わらずメールという手段をMは考えようともしない
けれどMが戻ってくれば
確実に僕たちの助けになるだろうとも思う
それにおそらくもうこれは
動き始めてしまっていることになるのだろう
そう考えなおしたところへ
老人と少女がふたりとも何事か嬉しいことでもあったような顔をして
書庫から戻ってきた
ダフネの鏡像は手に持ったかなり古そうな本を僕に見せる
あのひとが「こんな本が読みたいとは少しばかり驚いた」と言う
彼女の手にあったのはルナールの『博物誌』だった
おそらくは彼女が生まれる前
いや僕が生まれるよりも前の本なのかもしれない
半透明の紙のカヴァーに包まれていて
丁寧に維持されてきたものに見えたが
そのページのくすんだベージュ色から
本が長い時間を渡ってきたものであることは確かだった
思えば不思議なことだ
ダフネは本が読めたのだろうか
新聞を眺めて何かを理解したように見えたことはあった
けれどそれはどこか動物的な直観のおかげだったかもしれず
今目の前に立っている
もう一人のダフネは本を読みたいと
しかもそれは原語の本ではなく翻訳された『博物誌』だった
「まあ退屈しのぎになれば言うことはないな
バレに行くのでないなら何かしていないと気も塞ぐというものだ」
とあのひとが言うのを僕は複雑な思いで聞いた
今ここに流れている時間はゆったりとした
たおやかな時間ではないはずだった
不確定要素だらけで
いやそればかりか危機的ですらある状況のはず
なのにこの老練な元外交官は
これが何か退屈な時間の経過であるかのように言う
風が崖の上の家を包み
時間を止め
にじり寄ってくる者たちを永久に遠ざけている
そういうことででもあるのなら
そう感じることも許されるのかも知れないが
今ここにいる物静かな少女は
ダフネの鏡像であってもダフネではない
崖の上の家は風の中に
孤立して静まり返っているわけにはいかないはずだった
思えば不思議なことだ
ダフネは本が読めたのだろうか
新聞を眺めて何かを理解したように見えたことはあった
けれどそれはどこか動物的な直観のおかげだったかもしれず
今目の前に立っている
もう一人のダフネは本を読みたいと
しかもそれは原語の本ではなく翻訳された『博物誌』だった
「まあ退屈しのぎになれば言うことはないな
バレに行くのでないなら何かしていないと気も塞ぐというものだ」
とあのひとが言うのを僕は複雑な思いで聞いた
今ここに流れている時間はゆったりとした
たおやかな時間ではないはずだった
不確定要素だらけで
いやそればかりか危機的ですらある状況のはず
なのにこの老練な元外交官は
これが何か退屈な時間の経過であるかのように言う
風が崖の上の家を包み
時間を止め
にじり寄ってくる者たちを永久に遠ざけている
そういうことででもあるのなら
そう感じることも許されるのかも知れないが
今ここにいる物静かな少女は
ダフネの鏡像であってもダフネではない
崖の上の家は風の中に
孤立して静まり返っているわけにはいかないはずだった
